【9特集・改】 P:01


 
 
 辰の下刻。(09:20〜10:00)
 圭吾(けいご)は戸を開けたところで首を傾げた。
 
 
 町での仕事を片付け、大慌てで村へ戻ってきて。愛しい人の待つ家へたどり着き、勢い良く戸を開けたところ。
 言うべき言葉を失い、珍しくもぼうっとした顔になった彼は、静まり返った家の中を見つめる。
「………朔(さく)?」
 大きく張り上げるはずだった声は、窺うような呟きに変わっていた。圭吾が覗き込むのは、どう見ても人気のない家。何度中を見回しても、そこに美しい伴侶の姿はない。
 十日も会えないでいるのだからきっと、一人寂しく自分を待っているだろうと思っていたのに。
 圭吾は首をかしげたまま、村の人々に薬を与え、病や怪我などを診てやって、すっかり医者扱いの朔を思う。もしかしたら誰かから呼ばれて、家を空けているのだろうか?
 少しどころではなくがっかりして、圭吾は入ったばかりの家を出た。
 さて、朔はどこへ行ったのか?
「あれ圭さん」
 通りがかりの女から声をかけられ、振り返る。毎日の農作業で日に焼けた顔は、近所のかみさんだ。彼女は大きな籠を抱え、背の高い圭吾を見上げて笑っていた。
「どうしたんだい、あんた」
「どうしたって、仕事終わらせて帰ってきたんだよ俺は」
「え、そうなのかい?」
「……は?」
 かみさんは籠を置き、手拭いで首もとの汗を拭っている。彼女との噛み合わない会話に、圭吾は眉を寄せた。そこへ予想外の台詞。
「朔ちゃんがあんたのこと、迎えに行くって言ってたからさ」
「な、に?」
「あたしゃてっきり、桜太(おうた)ちゃんに会って、ゆっくり帰って来るんだろうと思ってたんだよ」
 思いもよらぬことを言われ、圭吾の額に冷や汗が浮かぶ。
「だから留守は任せな、なんて言ったんだけど」
「…そりゃ、いつの話だ」
「いつって今朝じゃないか。朝早くに家を出て行く朔ちゃんと会ったから、どこ行くんだい?って聞いたら、町まであんたを迎えに行くって、そりゃ嬉しそうに。…途中で会って、一緒に帰ってきたんじゃないのかい?」
 惚れられてるねえと、揶揄する言葉も圭吾の耳には届かない。
 朔が向かったという町を、圭吾が出てきたのはまだ朝暗いころ。しかしいくら暗くても、道中に会っていたら、さすがに気づくだろう。町から村まで、ほぼ一本道なのだから。
 どうしたことかと首を傾げ、圭吾は苦い表情で顔を上げた。
 思い出したのだ。道端の薬草や花に気を取られると、すぐに道を外れてしまう朔の性格を。
「…っ!あの馬鹿!」
 慌てて家へ駆け戻り、開けたばかりの戸を閉めるや否や、踵を返して戻ってくる。
「悪ぃ、改めて留守頼むわ」
「そりゃ構わないけど。圭さん、あんた帰ってきたばっかりじゃないのかい?」
 問いかけも聞かずに走り出した圭吾を、籠を担ぎ直したかみさんは、ぽかんとした表情で見送っていた。
 
 
 圭吾と朔が住んでいる村と、賑わしい町とは、そう遠く離れているわけじゃない。しかしどんなに急いだって、二刻や三刻はかかってしまう距離だ。
 圭吾は息を切らせて一度立ち止まり、長い道中を考え走るのをやめた。しかしそれでも歩き出した彼の速度は相当なもの。
 足早に来た道を戻る圭吾は、憮然とした表情を浮かべている。
 予定より一日早く帰ろうなどと、考えるのではなかった。

 圭吾は彫りもの師を生業(なりわい)にしているが、あまり自宅での仕事を引き受けたがらない。
 のどかな農村の、穏やかな雰囲気が気に入って住み着いているのに、そこへ身体に彫り物を入れようなんていう、物好きな客を招くのは憚られたからだ。
 ただ、圭吾が家に客を近づけない理由は、それだけじゃない。

 理由のひとつは、桜太という子供。
 捨て子だった彼を拾い、育てていた圭吾は、自分の客と自慢の息子を会わせるのを避けたがった。
 せっかく可愛く純粋に育ってくれている桜太には、あまり見せたい世界じゃない。
 父親と言うには若すぎる圭吾。彼は浅く灼けた肌に、きりりとした顔をしている。
 締まった筋肉質の身体に鋭い眼光をしていて、一見すると強面な印象ばかりが残るのだが。
 そんな彼が丁寧に大切に桜太を
育てる、懸命な姿は、村人の目にも町の者の目にも意外に映ったものだ。

 その桜太は今、自らの意思で町へ行き、働いている。
 村を出ると少年が言い出した時は、許すの許さないのと大騒ぎだった。しかし結局は圭吾の方が折れ、桜太の気持ちを優先してやって。少年は新しい世界に飛び込んでいった。
 桜太はきっと、圭吾が伴侶を得たことで、安心して町へ出る気になったのだろう。……というのが、村ではもっぱらの噂。
 突然ある日から村に現れた朔を、村人たちがあっさり認めてくれたのは、彼の医療知識もさることながら、その美しさも大きな要因だろう。