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このままのんびりと4年を過ごし、また適当に就職を決め、おそらく父のようなサラリーマンになるのだろうと、ぼんやり考えていた春休み。
衝撃的な舞台を見たのは、本当に、入学金を振り込む直前だった。
掃除のバイトで行った劇場は、派遣されたから行っただけで、最初から狙っていたわけじゃない。その証拠に、最初の一週間で舞台を見たのは、しんと静まり返る清掃中だけ。
ある日、たまたま次の清掃時間まで暇を持て余していた宏之に、仲良くなった劇場のスタッフが声をかけてくれて。
――ヒマなんだったら、今やってる舞台でも見てたら?ここのは結構、面白いよ。
一番後ろだったらタダでいいから、と言われて。タダという言葉に誘われ、暇つぶしならと見る気になった舞台。どうせTVドラマと変わらないものだと思っていた。芝居なんてコトバのイメージは、大衆演劇のチビ玉なんとかくらいしかなかったから。
途中から入った空間。
そこに、運命が待ち構えていた。
バカバカしいストーリーなのに、無性に惹かれたのを覚えている。楽しくて楽しくて、ずっと笑っていた。緻密な展開や、気の聞いた台詞回しに感心したのは、ずっと後のこと。もう見ている間は、とにかくワクワクしていて。
なのに、クライマックスでいつの間にか、自分が泣いていたのだ。
本気で驚いた。
何があったのだろうと。
いつのまに自分は、これほど登場人物に感情移入し、彼らの苦しみを分け与えられていたのか。それは今思えばきっと、ライブという生の臨場感が生み出す、強大な力だったのだろう。
大団円の終幕。
鳴り止まない歓声と拍手。
ああ、これは幼い頃に見た、ヒーローショーと同じだ。
宏之は身体が震えるのを必死で抑えながら、自分の探していたものを劇場の一番後ろで見つめていた。
演技の経験なんかまったくないくせに、突然「進学をやめる。役者になる」などと言い出したのだから、家では大騒動になった。両親は呆然とするし、姉たちは怒るし。
生活費はいらない。受験料も返す。自活するし家を出る。だから許して欲しい。
いつもは言葉の少ない宏之が、必死に口説くのだから。とうとう姉たちは降参して、一緒に両親を説得してくれた。
父から出された条件は、翌月に予定されていた劇団の入団オーディションに受かること。それがダメだったら、才能がないんだと諦めて、もう一度大学へ進学しろと言われた。
まあ、もっともな意見だと今は思う。
当時は反発して、落ちても来年受ける、諦めないなどと言ったが、父は子供の戯言ぐらいにしか考えていなかっただろう。姉たちがこっそり「とにかくオーディションが終わるまで黙ってなさい」と言っていたのだって、彼女たちも落ちると踏んでいたからに違いない。
そう、当の宏之だって。最初から一度で受かるとは思わなかった。
入団オーディションは、稽古場のあるスタジオで行われた。
面接の際に志望動機を問われた宏之は、普段あれほど無口なくせに、やたらと必死に語ってしまったのだ。しかも、幼い頃に憧れたヒーローショーのことばかり。
ぽかんと呆れる在籍団員たちの中、二階堂の笑い声で正気に返った宏之は、ああ落ちたな、とその時点で諦めてしまっていたのだけど。
――じゃあなに?君にはうちの劇団がヒーローショーに見えちゃったわけ?
笑いっぱなしの二階堂が聞くから。仕方なく正直に頷いたら、また爆笑されて。しゅんと耳を垂れる、大型犬のような宏之のどこを気に入ったのか、つかつか歩み寄ってきた二階堂は、ばしんと勢い良く背中を叩いてくれた。
「いいよ。面白いよこの子!この子取ろう!演技の経験?そんなのなくて構わないよ。スレてなくてちょうどいいんじゃない?僕が鍛えてあげるから。ね?来るよね、君。名前は?」
細身の演出家は本当に楽しそうな顔で、椅子に座ったまま呆然としている宏之を見下ろしていた。眼鏡の奥で光っている鋭い瞳が、にこりと笑みに細くなった瞬間。宏之の役者人生の始まりだった。