港には大勢の人が溢れかえっていて、互いの声もよく聞こえなかったけど。それでも一緒に帰ろうと言った言葉に、彼が首を振ったのはわかった。
答えはきっと、知っていたのだろう。
囁いた背の高い日本人は、たいして残念そうでもない様子で肩を竦め「本当につれない奴だな、あんたは」と笑ってみせる。
華奢な肢体の男が、下を向いていた。顔を上げたら自分の気持ちを曲げてしまいそうなくらい、強烈な誘惑だったから。
何も言わない美しい人の身体を、強引に引き寄せる。
「…なら、待っていよう。あんたがその気になるまで」
低い声に、細い肩がびくんと震えた。
そうっと視線を上げた、綺麗な顔。
「気の長い話だな」
「まあな」
「…どうせ、先に逝ってしまうくせに…」
掠れた言葉に、男は明るく笑う。
「あんた次第だろう?そんなこと」
「………」
「帰りたくなったら、必ず私の名前を思い出してくれ。どんなに遠く離れていても…たとえ、私がこの世を去った後でさえ、必ずあんたのことは、守ってみせる」
「偉そうに」
「偉くなるさ。後世まで、名が響くよう。あんたがどんなに忘れたがっても、忘れられないくらい。この名を響かせてやる」
にっと笑った勝気な表情で、男は繊細な顎に指をかけ、上を向かせた。
そっと唇をなぞったけど。口付けたのは美しい人の額。
この人は、男のものにはならないのだから。……永遠に。
「惺(セイ)?」
愛しげに名前を呼ぶと、かすかに睫が震えて、瞳が男を映した。
惺は男を見上げる。何度経験しても、別れには慣れることが出来ないけど。そんな惺の不安さえ飲み込んで、男は明るく笑っていた。
「守るよ」
「……ああ」
「必ず、あんたを守れる人間に、なってみせる」
「……わかった」
「あんたこそ忘れるなよ?私の名前を」
じっと男を見つめて、惺は唇を開いた。
「泰成(タイセイ)……」
呟きに、嬉しそうな顔をして。泰成はぽんぽんと優しく、何度か惺の頭を撫でた。
「じゃあ、またな」
これが最後になるかもしれないというのに、男はまるで明日にでも顔を合わせるかのように、さらりと別れを告げるのだ。
「っ…!泰成っ」
未練がましく名前を呼ぶのは、きっと泰成の方だと思っていたのに。惺は思わず手を伸ばし、しかし人の波に捕われて捕まえられず、細い手は空を切った。
くるりと頭だけ振り返り、泰成は明るく手を振って離れていく。
彼の乗り込んだのは、南の海を回って日本へ向かう船だった。
泰成と惺が出会ったのは、港で別れる■年前の、ある夜のこと。ロンドンの裏通りだった。
太平洋戦争が終わり、大きな戦いに疲れ果てた世界が、まだほんの少しざわついているような時代。笠原(カサハラ)家の長男である泰成は、親の目も届かぬこの英国で、勝手気ままな生活を謳歌していた。
名目は留学となっているが、ようはほとぼりが冷めるまで国外へ放り出されていたのだ。
笠原という名家の長男という立場に自惚れていた泰成は、日本にいた頃からやりたい放題に生きていた。
東洋人とは思えないほど恵まれた体躯に強気な性格。ケンカに強く、その上頭の切れる男で、うなるほど金のある泰成に、怖いものなどなかったから。
女も男も泰成に媚びへつらい、少しでもいい思いをしようと身をすり寄せる。それがわかっていてなお、彼は札束で人の面を張るようなことを、平然とやっていた。
戦時中から「日本は負けるよ」と言い放ち、親を困らせていた彼は、あろうことかGHQでも一目置かれていた男の妻を寝取ったのだ。
さすがに笠原家も、泰成を庇いきれなくなった。これ以上下手なことをされては、事は疲弊しきっている日本の将来まで左右してしまう。焦った両親は笠原家の家令を代々勤めていた来栖家の息子、秀彬(ヒデアキ)をお目付け役に、泰成を日本から追い出したのだ。
しかしそうして、異国の地に追いやられた泰成が、反省しておとなしくなるかといえば、そんなはずもなく。彼はただ日本から英国に遊び場を広げただけ。
まだまだ日本人への風当たりが強い英国の地において、倣岸不遜な泰成の振る舞いは、多くの敵を作りもしたが、再び取り巻きを作るまで時間もかからなかった。
なにしろ泰成を溺愛していた笠原の両親は、毎日遊び呆けても余るくらいの金銭を送りつづけていたのだから。
ロンドンの裏通りを歩いていた泰成はそのとき、女の家から出てきたばかりだった。
ちょっとばかり見目のいい女だが、最近は何かといえば自分を日本へ連れて行ってくれという。誰から聞いたのか、泰成の身の上を知ったらしい。
小屋の踊り子風情が笠原家に入ろうなどと、おこがましいにもほどがある。東京でもロンドンでも、女の考えることは大差ない。