どんよりと暗い、空の色。
霧が立ち込める首都から遠く離れた、岬の町。
荒々しい海と、険しい断崖に囲まれたこの町は、港町でありながら「行き止まりの町」などと呼ばれている。
ここより先に、光は無く。
ここより先に、道は無い。
ただ「引き返せ」と、静かな声が聞こえてくるような町。ここで暮らす人々は、抗えない因習と閉塞感に苛まれながら、逃げ出す日を探している。
男たちは空を見上げることもなく、ただ黙々と働いて。その姿はまるで、身の内に巣くう希望を踏み潰しているかのように見えた。
女たちは立ち寄る船乗りたちに群がり、こんなところで終わりたくはないのだと悲鳴を上げていた。
誰か助けて。自分を連れて行って。
行き止まりの町に潜む暗い暗い衝動は、町の人々を互いに縛り、足止めさせているように見える。
「待って、ねえ…タイセイ!」
港にある倉庫街。
一軒の酒場から出てきた青年に、美しい金髪の少女が駆け寄っていた。
不機嫌な表情の男に必死な様子で取り縋り、彼女は強い力で男の腕を掴んだ。
岬の先端にあるこの町には、資源と呼べるものがほとんど無い。
痩せた土地は農耕に向かず、険しい山に森林資源も少ない。観光資源があるはずも無くて、あるのは南側を占める港くらいのもの。
この港の倉庫街だけが、町で唯一の安定した収入資源だ。
しかし荷物を降ろしても、積み換えに利用するだけで遊ぶ場所にも困る町では、船乗りたちのやる気も失せようというもの。
辟易するような港で、早く海へ出たいと溜め息をつく船乗りたちだが、一人だけ彼らの拠り所になっている少女がいる。
それが、この金色の髪の少女だった。
父親のやっている店で、給仕を務める少女。この町には珍しい、彼女の屈託の無い笑顔が、船乗りたちを癒してくれる。
店の方も味が良く量が豊富で、客の途切れることがなかった。
ただ、店から飛び出してきた今の彼女に、笑顔は無かったが。
「タイセイお願い、待って!」
この国の言葉としては、いささか訛っているような。田舎町の少女は、懸命に男を引きとめる。
背の高い男を見上げる瞳には、涙が浮かんでいた。
「…君が、これほど愚かだとは思わなかったね」
侮蔑を含んだ言葉。
少女はひくっと身体を震わせながら、男の冷たい瞳を見つめる。
男の、黒い瞳。
その瞳や、黒い髪は東洋人のようだが、そうは思えないほどしっかりした体躯の青年。まだ二十歳になるやならず、というところか。
男は掴まれた腕を不満げに見つめ、娘に目を遣って、彼女が気の毒になるほど、あからさまな溜め息を吐いた。
「あまり、賢いやり方じゃないな」
タイセイと呼ばれた青年の方が、よほど流暢にこの国の言葉を話している。おそらく彼は、首都での生活が長かったのだろう。ただその話し方は、女性に対して優しいものではない。
あくまで冷たい男の態度に、娘は少し怯えた表情になって。悲しげに首を振った。
「ごめんなさい、でも私…」
「どうしてもこの町を出て行きたかったから、だろう?いい加減、聞き飽きた台詞だ。…勝手にすればいい、というのも、言い飽きた台詞だがね」
少女の手をやんわり押し返し、彼は前髪をかき上げた。意志の強そうな瞳が、苛立ちを隠そうともせずに、少女を見つめている。
彼がこの町に滞在するようになって二ヶ月になるが、彼女に限らず、知り合う町の女たちが言うことは、皆同じだ。
この町を出たい。
自分を連れて行って欲しい。
私と一緒に逃げて。
こういった台詞は、町に滞在したよそ者が必ず言われる台詞だった。
とくに彼のような、身なりのしっかりした若者なら、聞き飽きていて当然かもしれない。
港町でも珍しい東洋人。しかし彼ほど大柄な体躯の東洋人を、この町の人々は見たことが無いだろう。
この国の男と並んでも引けを取らない長身。黒い髪に黒い瞳だけでも、この国の人々には神秘的だというのに、大柄な体躯には恵まれた容姿が備わっていた。切れ長の瞳は笑うと少年のようになって、女性の心を惑わせる。
彼の着ているもので、女たちは男が相当な資産家だと見抜いていた。
仕立てのいい服をきれいなラインで着こなす姿は、この国も男よりはいささか華奢に見えなくもないが、それがまた女たちの気を引くのだ。
青年は、嫌が応にも、町の女たちに夢を見せてしまう。御伽噺くらいの知識しかない、極東の島国へ。この男が連れ去ってくれるんじゃないかと。
それはしかし、彼にとって迷惑な我がままでしかない。
大仰な様子でため息を吐き、男は「君はもう少し賢い女性だと思っていたよ」と呟いて、再び歩き出した。