【この空の下にC】 P:01


 攫われた秀彬(ヒデアキ)を救い出し、無事を確かめてほっとしたのも束の間。逃げ出す暇も与えずに現れた侯爵夫妻に導かれ、泰成(タイセイ)は領主館の中を歩いていた。
 腕の中で震えている幼い従者は、始め一人で歩けると言ったのだけど。よろける彼の肩を抱いた泰成が「いいから」と宥めるのに、躊躇う表情を浮かべ、しかし結局は怖かったのだろう。今は泰成の身体にしがみついている。
 何度か頭を撫で、励ますように肩を叩いてやる。秀彬はそのたびに顔をあげ、頷いていた。
 夫人はそんな二人の様子を何度も振り返り、呪いさえこめて睨みつけている。
 しかし、知ったことではない。
 どうせこの人は、泰成も秀彬も無事に帰す気がないのだ。

 ところどころに掲げられた蝋燭の明かりだけが頼りの、時代遅れな廊下を進む。壁に並ぶ肖像画が、どれも暗く見えるのは、覚束ない照明のせいばかりではない。
 侯爵によく似た、暗い表情。
 こんなものを毎日眺めていては、気が滅入るというものだ。
 ようやく目的地に着いたのか、泰成の身長の倍は高さのありそうな、大きな扉。その前には面識のある執事と、屈強な男が二人控えていた。
 泰成は少し、視線を鋭くする。

 このスミスという執事には、何度か会ったことがあるけれど。何度会ってもこの、爬虫類めいた冷たい目が気に入らない。
 感情が読み取れず、しかし常に尊大な態度で、過剰に慇懃な所作がいちいち気に障るのだ。
 代々笠原家当主に仕える来栖家の人間を見ているせいか、そのあまりの違いに、泰成はスミス氏に会うたび、苛立ちが隠せない。
 この国は執事を雇う家が多く、またその質が高いのも、泰成がこの国を気に入っている理由なのだが。今までに会った誰よりも、彼は職に忠実で、誰よりも向いていないように思える。
 だいたい、この男の入れるお茶は不味くて、飲めたものじゃないのだ。

 スミスはちらりと泰成に視線をやり、舐めるように上から下まで眺めた後、何も言わず背を向けた。低く枯れた声で、後ろの男たちに扉を開けるよう、命じている。
 静かに頭を下げ、二人の男が重そうな扉を両側へ開いた。
 先には眩しいくらいに明るい、パーティルーム。ここにだけ電気が煌煌としているのが、いっそう不気味さを煽る。
 夫人は踵を鳴らしてその真ん中まで進むと、満面の笑顔で泰成を振り返った。
「さあ、座ってちょうだい!」
 隣に手招く彼女に逆らって、泰成は向かいの一人掛けのソファーへ近寄った。
 とん、と励ますように秀彬の背中を軽く叩く。顔を覗きこむと、少年は大丈夫ですと言うように、一生懸命微笑んでいた。

 黙って頷き、傍らに彼を立たせたまま、泰成はそこに座って傲然と足を組む。自分の誘いを無言で断った泰成に、夫人は眉を寄せたけど。そのまま一人、長いソファーに身を預けた。
 この館の主でありながら、一番後ろを歩いていた夫の侯爵は、夫人に近寄りもせずに立っている。
 執事の運んだワイングラスに口をつけ、大きなチェストに寄りかかって。
 二人の様子に、泰成は溜め息をついた。夫人もさることながら、どうにもこの侯爵が何を考えているのかわからない。いつも黙って夫人の傍らに立ち、彼女が何を言い何をしても、逆らう姿や嗜めるところを見たことがないのだ。
 そう……それをするのはいつも、雇われているはずのスミスだった。
 ありえないことだ。
 執事の立場で、の奥方のすることに口を出すなんて。まだ家令としては未熟な秀彬でもわかっていることを、平然とする執事も、それを許す侯爵も、泰成には理解できない。
「何か飲むでしょう?タイセー。用意させるわ。…あなた、自分の主人の飲み物よ?手伝っていらっしゃいな」
 秀彬を睨みつける夫人の前で、一度立ち上がった泰成は、コートを脱ぎそれを秀彬に手渡した。
「持ってなさい」
「泰成様…」
 僅かに頷いて受け取る秀彬に、けして自分から離れるなと小声で命じる。この館の中では、何一つ信じるわけには行かない。
 夫人を振り返り、座りなおした泰成は、長い足を再び組んだ。
「申し訳ない。この子の小さな手は、私の外套を預かるので精一杯のようだ」
「あら、それは大変ねえ。こんな子供が召使では、あなたも何かと不自由するでしょう」
 雇う人間の質について、この館の人間にだけは言われたくないものだ。しかし泰成は、余裕の表情で微笑んだ。
「そんなことはありませんよ。この子は誰よりも頼りになる、大切な従者です」
「…こんな夜遅くに、主人の手を煩わせるような召使でも?」
 不満げな侯爵夫人は、口元にいびつな笑みを浮かべている。しかし泰成はあくまでも明るく笑って、彼女と向き合っていた。