「勿論です。この子は生まれたときから、私に仕えると決められている。代わりなどいるはずがない。…この子をないがしろに扱うのは、私の誇りに傷をつけるのと同じことですよ」
聞いたこともないような泰成の言葉に、後ろで控えている秀彬が驚く顔になったけど。その嬉しそうな顔は、侯爵夫人の苛立ちを引っ掻いたようだった。
すうっと口元から笑みを消し、彼女は真っ赤に塗られた爪をカリっと噛んだ。
知っている。
あれは彼女の中で渦を巻く、暗い衝動が発露する前兆だ。
「…ただの、子供じゃないの」
唸るような低い声。
どうしたものかと泰成は、指先で肘掛をとん、と叩いた。
ここで彼女を激昂させ、混乱にまぎれて屋敷を脱出するか?しかし味方のほとんどいない町で、その後どうする。険しい山を越えれば逃げられる可能性が無いわけじゃないが、幼い秀彬を連れ、何も用意していない現状で山に入るなど、自殺行為だ。
ふっと目を伏せる泰成の脳裏に、惺の声が響いていた。
――落ち着きなさい。
ひやりとした冷たさを以って、泰成に染み渡る。
功を焦ってはいけない。
夜明けの時間はまだ遠いのだから。
「…シルヴィア、爪を傷めますよ」
ゆっくり立ち上がった泰成は、秀彬の肩を叩いてから、侯爵夫人の隣に座った。
見上げてくるぎらぎらした瞳に笑いかけ、彼女の夫が見つめる目の前で、夫人の手を取りそこだけ短くなってしまっている親指の爪に、唇を寄せる。
「ああタイセー…ねえ、わかってちょうだい。私は貴方を愛しているのよ…」
一転して甘い声を出し、彼女は泰成に身をすり寄せた。青く感じるほど白い、その肌に眉を寄せた泰成は、ゆっくりと首を振る。
「なぜ、私を疑うのです」
「タイセー…?」
「貴女に会いに来なくなったから、ですか?私がこの町を出ようとしているから?」
「だって、貴方…」
ぎゅうっと眉間に皺を寄せ、媚びるように豊かな胸を押し付けてくる。
こういう仕草が出会った頃、泰成には魅惑的に見えていたのだけど。今となってはおぞましさを感じるだけだ。
あまりに不愉快で、振り払ってしまい。しかし泰成は顔を上げ、秀彬の姿を視界に入れた。
怯えた表情で成り行きを見守っている秀彬。あの子のためにも、耐えるしかない。
頭痛がしそうなくらい、思考を回転させる。活路を探す。
「…一緒に、行きたい?」
耳元で囁いてみる。
侯爵夫人はびくんと身体を震わせ、目を見開いていた。
「あ…あ、あ…」
町へついたとき、夫の前で「一緒に逃げて欲しい」と叫んだ女だ。彼女の望みが町の女たちと同じように、外の世界へ飛び立つことなのだとしたら……それを利用するのも、悪くない。
とにかく町を出さえすれば、道は開かれる。
泰成は微笑を浮かべ、愛撫するように侯爵夫人の髪を弄りながら、甘い言葉を並べ立てた。
「私の祖国は表情豊かな国でね。季節ごと、咲き乱れる色とりどりの花は、絶えることがない。冬は雪が降り、この国と同じくらい寒くなる。しかし夏になれば、服を着ていられないくらい暑いんですよ」
「タイセー…」
「こんなドレスなんて、着ていられない…貴女が美しい肌を晒していたら、男が放って置かないでしょうね」
肩を抱いて、服の上から足を撫で回す泰成の手に、侯爵夫人は身体を震わせ薄く唇を開いていた。
この女がどれほど好色か、相手をしていた泰成は熟知している。
「淡い花の香りに包まれて、貴女を抱いても構いませんか」
「ええ…ええ、タイセー」
「行ってみたい?」
「…行きたいわ…」
すうっと目を細めた泰成は、切り札だとばかりに声を響かせる。
「この暗い領主館を出て…貴女に縋りつく領民たちを置いて…」
「ああ…あ…」
「…貴女の夫と、離れて」
ガラスの割れる音がしたのは、その瞬間だった。
驚いた秀彬がぎゅっと目を閉じ、はっとした泰成も、顔を上げて音の方を振り返った。
そこには無表情な執事と、床には割れたグラスが飛び散っている。
「これはこれは、わたくしといたしましたことが。失礼いたしました」
慇懃に頭を下げ、控えていた男たちに片付けるよう命じる。その間も、彼の目は暗い光を宿して侯爵夫人に向けられていた。
何を言うでもない。
ただじっと、シルヴィアの様子を見ている。
――何だろう、あれは?
泰成は少しも詫びの感じられない執事と、その向こうの侯爵を見つめていた。
沈黙を続ける侯爵。
彼は手にしていたワイングラスに視線を落とし、それをチェストの上に置いてしまう。
「…侯爵」
何かを言いかけた泰成の腕の中で、侯爵夫人の細い身体が、飛び上がるくらい大きく震えた。
「あああっっ!!!」
悲鳴が上がる。
妻の声に、侯爵はぎゅうっと眉を寄せて目を閉じた。