【その瞳に映るものH】 P:12


 もし思い悩む日が来たら、武琉の相談にのってくれるのはきっと、同じ道にいる父さんたちだと思うから。
 話しておくことに意味はあるはずだ。

 父さんはピアノの前の椅子に座ったままで、楽譜を手に武琉へ話しかけている。
「怒られるとでも思ったのかい?…なあ、武琉。私たちはお前が我々と違う分野を目指す違和感などより、音楽の世界へ戻ってきてくれたことの方が、ずっと嬉しいよ。またお前の奏でる旋律を聴けるなら、クラシックでもジャズでも、大した違いはないんだ」
「そうよ、ねえ。弾いてちょうだい?母さんも武琉の音が聞きたいわ」
 両親にせがまれても、武琉はただ黙って首を振っている。
 ナツくんの前でしか弾く気はないんだと言った武琉。ぼくに練習を見られることさえ、最初は嫌がった。
 でもぼくは、覚えているんだ。
 お前が本当に楽しそうに、楽譜を抱えて教室へ通っていたこと。覚えてるんだよ。
「自信がないのかい?」
「…………」
「武琉…父さんたちは、日本でのツアーを終えた後、アメリカへ行くことになっている。言わずと知れた、ジャズの本場だ」
 急な話題の転換。
 父さんの話が飛ぶのはよくあることだけど、何が言いたいのかわからなくて、ぼくまで首を傾げてしまった。
 アメリカが、何?
「お前、父さんたちと一緒に行かないか?独学でやるのもいいが、本物の音を聞くのが一番勉強になるんだよ」
 驚いて目を見開くぼくの横で、武琉もさすがに顔を上げた。
 息子たちの動揺を、どんな風に理解したのか。父さんは穏やかな笑みを崩さないし、母さんは嬉しそうに武琉のそばへ来て手を握っている。
「ねえ…お母さん、ずっと考えてたの。武琉ともっと、一緒にいたいわ」
「やめろよっ」
 手を振り解く武琉を、傷ついた顔で見つめる母さんの表情に、武琉も少し後悔を滲ませたけど。頑なに首を振るんだ。
「…行かない。ここにいる」
「そんな寂しいこと言わないで…。武琉はまだ小さかったから、お母さんたちと海外を飛び回るのは可哀相で、一琉と暮らすようにしたけど。お母さんは最初から武琉を連れて行きたかったのよ…もっと武琉と、一緒にいたいの…」
 涙を浮かべる母さんの姿に、ぼくの心臓がどくっと跳ね上がった。
 何を言い出してる?
 武琉を連れて行くつもりなのか?
「待って…それはさすがに、無理だろ」
 両親の突飛な発言に、ぼくは唇の端を吊り上げた。なんだか口の中がカラカラに乾いてる。
「学校はどうするんだよ?武琉はまだ義務教育中なんだから。せめて冬休みとか、来年の夏休みにでも」
「一琉、学校の中で教えられることなど、ほんのわずかなことなんだ」
「父さん」
「今、武琉の目がジャズに向いているというなら、その才能を伸ばしてやるのが本当の教育だろう?…それに、お前も」
「ぼく?…ぼくが、何」
 手が震えてる。ぼくはどうして、こんなに動揺してるんだろう?
「ずっと私たちに代わって、武琉を育ててくれた。お前の苦労にはいつも、頭が下がる思いでいるんだ」
「え…?」
「そうよ一琉…あなたももう、自由になるべきだわ」
「母さん、ちょっと待って。ぼくが苦労って、いつそんなこと」
「ずっとこのままなんて、無理なのよ。あなたもいつか、恋をして結婚して、家庭を築くでしょう?ううん、いつかなんて遠い話じゃないわね。付き合っている人はいるの?」
 尋ねられて、曖昧に頷いた。
 付き合っている人はいるけど、アキと結婚したり、家庭を築くことは出来ない。
「そう…ねえ一琉。あなたその人に、武琉の面倒を見させるつもり?」
 びくっと肩が震えてしまった。
 待って、何を言ってるんだ?アキのことと武琉のことを、一緒にするなよ。
 そもそも武琉が嫌がってるのに、強要するなんて、そんなこと。そんなつもりでピアノの話をしたわけじゃないんだ。
「話が飛びすぎだよ!そんな、いつかの話で武琉の将来を決めるようなマネ…」
「いつかじゃないんだ、一琉」
 父さんに>厳しく>言葉を遮られ、ぼくは口を噤んだ。
「ずっと考えていたことなんだ。我々は家族のあり方を、もう一度考え直さなくてはならない。…武琉は父さんたちと共に。お前は愛する人と共に。それが一番いい選択だとは思わないか」
 纏まらない考えに呆然としていた。
 確かにアキとの時間が、もっと欲しいとは思っていたけど……だからって。
 視線を感じて武琉の方を見る。
 ぼくがどれほどアキに惹かれているか、武琉は知っている。
 大人びた顔を青ざめさせ、じっとぼくを見つめる武琉。どんな言葉をかけてやればいいのかわからずに、ぼくは目を逸らせてしまった。



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≪ツヅク≫