凄い勢いで掛け布団を跳ね除け、起き上がったぼくは、まるで走りこみでもしたかのように、荒い息を吐いていた。
自分の見ていたものが夢だったことに安堵して、肩を上下させる。
馬鹿みたい……全然成長してないな。
何年も見ていなかった悪夢は、過去の現実をなぞったもの。
ぼくはその出来事を、かつて何度も何度も夢に見て、そのたび同じ言い訳を繰り返している。
あの時ぼくはまだ、9歳だった。
悪いのはぼくじゃないし、あの頃のぼくは9歳という年齢で出来る限りの反省と、後悔をした。
誰に責められるいわれもないし、ぼくも自分を責める気はない。
わかってる。
―――もう終わったこと。
でも、どんなにわかっていても。
身体は正直で、流れ落ちる冷や汗は止まりそうになかった。
ゆっくり立ち上がり、額の汗を拭いながら自分の部屋を出る。そうっと開けたのは武琉(タケル)の部屋。
電気をつけても、誰もいない。明るいだけの、蒸し暑い部屋だ。
壁に留めてあったナツくんとの写真がなくなってる。あとは教科書や制服。
この家を出て両親と暮らしたいと言った武琉のことを、ぼくは止めなかった。
もうすぐ半月になるけど、一度も武琉はここへ戻ってこない。
一人で住むのに3LDKは広すぎだ。
武琉の部屋を見つめたまま、ずるずると壁に寄りかかって座り込み、膝を抱える。自分の部屋から流れてくるエアコンの、ひんやりした風が気持ちいい。
ぼくはそのまま目を閉じて、今さっきの悪夢を思い出していた。
それはぼくが9歳の時の話。
当時武琉はまだ生まれたばかりだった。
母を取られたと、弟に嫉妬するような年齢でもなく、ぼくは幼いなりに、生まれてきた初めての弟が可愛くて仕方なかった。
小さな命に対する愛しさ。
お兄ちゃん、と周囲から呼ばれるようになった誇らしさ。
武琉を包む周囲の柔らかな愛情は、ぼくまでも優しく包んでくれていた。
産休を取っていた母。日本のオーケストラに常任していた父。
それまで留守がちだった二人が、毎日家へ帰ってきてくれるのが嬉しかった。
家事にも育児にも向かない母を助けるため、母方の祖母が家に来ていたことも嬉しかったし、通いだったお手伝いさんが泊り込んでいるのも特別な感じがして。
いきなりの大家族。
ぼくにはまるで、ドラマのようでさえあった日々。
当たり前の、幸せな家族だった。
唐突な事件に巻き込まれるまで、誰もぼくらの幸せを疑わなかった。
今でも記憶に残る、暑い夏。
ちょうど夏休み前の、終業式の日の出来事。
その日、父が仕事に出た後、母と祖母が一緒に買い物へ行くのは、前日までに予定されていたことだった。
留守番はぼくと、武琉と、なじみのお手伝いさん。
そんな日は初めてじゃなかったし、こういう日に父が言ってくれる「お前に任せるぞ」という言葉は、幼いぼくにとって、とても大切なものだった。
―――男同士の約束だ、一琉。お前がこの家を守るんだからな。
いま考えれば、それは単に大人が子供と交わしたお遊びみたいなものだったけど。ぼくには特別な、使命のように感じられていたんだ。まるで自分が、正義の味方にでもなった気分。
だからぼくは学校の終業式を終えて、大急ぎで家へ帰って来た。少しでも早く家に着きたかった。
ただいま、と。ドアを開けたところに、武琉を抱く女性の姿。
もう長いこと藤崎(フジサキ)家に勤めていた女性。その日ぼくと一緒に、留守番をしてくれるはずの人だった。
武琉を抱いたまま、玄関で靴を履いていた彼女に、どこへ行くの?と、ぼくは当たり前のように聞いた。
彼女がもう少し冷静なら、なんとでも言い訳をしたはずだ。そう、散歩へ行くとでも言えば、きっとぼくは疑わなかった。
でも胸に秘めた犯罪の後ろめたさから、彼女はぼくに、咎められたと思い込んでしまって。
思い切りぼくを突き飛ばし、そこから逃げようとした。
強い力で突き飛ばされ、頭を打ったぼくは、激しい痛みにようやく、目の前で異常な事態が起こっているんだと気付いた。
彼女が武琉を連れ出すのは、けして当たり前のことじゃないんだと。
ぼくが守らなきゃいけない。
そんな言葉が胸に湧き上がった。
フラフラになりながら彼女の足にしがみついた。必死で指に力を込め、彼女を止めようと爪を立てた。
―――武琉を連れて行かないで!
ぼくは必死に叫んでいた。
真っ青になった女の顔。異常な事態を感じた武琉が、泣き叫んでる声。
自分が蹴られていた痛みなんかより、可哀相なほど泣き叫ぶ武琉の声だけが、ぼくの記憶に刻まれてる。
遠のく意識の中で、何度も何度も武琉の名を呼んでいた。
行かないで。
ぼくの大事な弟を連れて行かないで。