でも、たった9歳の子供に、一体何が出来ただろう?
痛みに気を失い、身動きが取れなくなったぼくは、目を覚ました後で自分が武琉を守れなかったのだと知った。
のちにしばらく新聞を騒がせた、音楽一家次男誘拐事件だ。
真っ青になっている両親。泣くばかりの祖母。駆けつけた警察。ぼくの手当てをしてくれた顔なじみの医者。大人たちの緊張した様子に、事態の大きさを悟った。
たぶんあれが、ぼくの人生にとって最初の後悔であると共に、屈辱だったと思う。
父との約束が守れなかったこと。
大事な武琉を守れなかったこと。
ぼくのせいだ、と呟いた9歳の子供を責める大人はいなかったし、父も母もぼくを抱きしめて「お前は悪くない」と囁いてくれたけど。誰よりぼく自身が、無力な自分を責めていたんだ。
武琉を連れ出した女は、三日後に自分の手で武琉を抱いて、戻ってきた。
お手伝いさんとして派遣されていた彼女が、過去三度の流産を経験し、ようやく生まれた我が子も、一歳の誕生日さえ迎えられずに失っていたのは、武琉が戻ってきてからわかったこと。
世間は彼女に同情し、ぼくの両親さえ寛大な処置を願い出た。
良かった、と。人は言うかもしれない。
最悪の中の最良のケースだったと。
でもぼくは、あの時の悔しさを忘れられないんだ。自分の無力を痛感した、あの日の出来事を。
メガネをかけていないせいだとばかり思っていた、ぼんやり滲む視界。ふと自分の頬に触れたぼくは、指先を濡らす涙が自分のものだと気付いて驚いた。
事件の直後ならともかく、今さら夢に見て泣くなんて。自分にまだそんな弱さが残っているとは思わなかった。
心身ともに鍛えたくて始めた空手が、ぼくを強くしてくれたから。自分の中の結論は、もうついてる。
ぼくが悪かったわけじゃない。
たとえあの当時、すでに空手を習っていたとしても、彼女を止めることは難しかっただろう。
冷静になればなるほど、ぼくは自分が、当時出来るだけのことをやったのだと考えることが出来たんだ。
それでもこうして、武琉と離れて初めて気づくことがある。
長引く海外ツアーが決まった時、武琉を連れて行くつもりだった両親に、自分が面倒を見るからと訴えたのは、きっとあの事件があったから。
両親がぼくの思いを受け入れて、まだ幼かった武琉を日本に置いていってくれたのも、それがわかっていたせいなんだ。
忘れていたつもりはなかったのにね。
時間と共に、悔しさが風化していたのかもしれない。
まさかこんなに辛い思いをするなんて。
ずっと手元で育てていた武琉。
年の離れた弟の存在は、面倒だと思ったことも、鬱陶しいと思ったことも、なかったと言ったら嘘だ。
苦手だった家事から逃げたかったこともある。高校、大学と、遊び呆ける周囲の友達を羨ましく見ていたこともあった。
自由になった方がいいと、両親に言われたとき、確かにぼくはアキの顔を思い浮かべていた。
武琉に何も言ってやれなかったぼくは、いま一人で無様にうろたえている。
情けないな……こんなことなら「武琉の思うようにしなさい」なんて、偉そうに言うんじゃなかった。
唐突な両親からの提案。
ピアノの練習を再開した話が、まさか今すぐ武琉を引き取る、なんて話に繋がるとは思わなかった。
いや、この両親の提案は、唐突だったけど遅かれ早かれ、息子たちに提示されていただろう。ぼくに苦労をかけている、という言葉は今までも、会うたび聞かされていたセリフ。
だからぼくが一番驚いたのは、両親のことじゃなくて。
物心ついて以来ずっと、親よりぼくに懐いていた武琉が、自ら両親の元へ行く、と言い出したこと。
両親が日本に帰国した翌日の朝、武琉はいきなりこの家を出ると言い出した。両親と共に実家へ住み、その後、二人の日本ツアーが終わったら一緒に海外へもついて行くつもりなのだと。
どうしたんだろう。
やっぱりきっかけは、ピアノだったんだろうか?それを言われるとぼくには、何も口出しが出来ない。
音楽というものにかける彼らの情熱を、ぼくは少しも理解することが出来ないのだから。
武琉は荷物をまとめ、大人になりたいんだ、という言葉を残して、この家を出て行った。
両親の喜びようは大変なものだったし、武琉がそれを望むなら、ぼくに反対する理由はない。
だから「思うようにしなさい」と、背の高い武琉の後ろ姿を見送ったんだけど。
……でも。それでも。
初めて手に入れた一人の生活に、ぼくはどうしても慣れることが出来そうにない。