三十代半ばの雇われマスター吉野(ヨシノ)は、元々ニヒルな顔をいっそう渋く歪めて、酷いことを聞いてきた。
「バカだバカだと思ってはいたが、お前一体どこでバカなんだ?」
真っ白なコックコートに身を包んでいるシェフ長谷(ハセ)は、吉野の言葉に拗ねたように唇を尖らせ、子供じみた反論をする。
「バカにバカ言う方がバカなんやで!関西人にバカ言うなっ」
そばで二人の会話を聞いていたバリスタ笹山(ササヤマ)は、普段のクールさが嘘のように笑いをこらえ、肩を震わせていた。
長谷の勤めるカフェ“シェーナ”がオープンするまで、あと二十分。
広い厨房の一角に作られている、スタッフの休憩スペースで、全員のコーヒーをいれている笹山。店頭に出す黒板を書いている吉野。モーニングメニュー仕込み中の長谷。
そこにはバイトも何人か居合わせ、準備の済んだ店を開店させるまで、打ち合わせがてらしばしの歓談中。
話題は長谷と、奇妙な同居人の話だった。
「フルネームさえ教えようとしない人間に、合鍵渡して留守番させる奴を、他になんて呼べばいいんだ?教えろよ」
「そんなんゆーたって、しばらくウチにおりたい言うねんもん。まだスーツも戻ってきてへんし、しゃあないやん」
「ようするに、惚れたのか。そりゃまた変わり身の早い話だな。なあ笹山?」
「そこは笹山に振らんでもええやんか!」
「そうですね。でも僕は長谷の幸せを祈ってますから」
「ホンマもう、勘弁してって…そーいうんちゃうねんから…」
本当なら掘り返して欲しくない長谷の失恋話を、吉野は積極的にネタにする。最初は無神経だと腹も立ったが、軽口にされたおかげで長谷も笹山も、早々に吹っ切ることが出来てしまった。
告白したことさえ嘘のように、以前より強い信頼で協力し合える同僚になれそうだ。
メニューの黒板を書き上げた吉野が、それをバイトの一人に渡して立ち上がった。
「ま、俺としてはその橘(タチバナ)ってヤツ、尊敬するけどな」
「尊敬?なんで?」
「お前の盛り付けたメシが食える」
「吉野さんッ!」
「店でお前の、独創的なオリジナルは出すなよ?常連客まで逃げるからな」
「わかってますっ」
「よし、じゃあミーティング始めるか!今日は祝日だ。もうクリスマスは始まってると思えよ!」
「「「はいっ」」」