東 千歳(アズマチトセ)が大きなため息を吐いているのは、タクシーの車内。しかも数ヶ月前と同じように、今度も葛(カズラ)邸へ向かうタクシーの中だ。
「どうしたの、千歳さん。疲れた?」
前回と違うのは、心配そうに顔を覗き込む虎臣(トラオミ)が、隣に座っていること。
千歳は自分の中に、不安を押し込めて笑った。
「大丈夫だよ、何でもないんだ」
「でも顔色悪いよ。やっぱヤメる?」
「今更だよ虎くん」
「お客さん、酔ったかい?」
ミラー越しの運転手にまで心配され、慌てて首を振る。
「いえ、平気です。それよりすいません、駅から近いのに」
「あはは、構わないさ。あんなに荷物があったら歩くのも大変だ」
歩いて行ける距離にも関わらず、荷物の重さにタクシーを選んだのは千歳だった。
こんなことなら葛 蓮(レン)が「車で迎えに行ってやる」と言ってくれた言葉を、断らなければ良かったかもしれない。
「大荷物だねえ、まるで軽い引越しみたいだけど…?」
千歳たちが乗ったときから気になっていたのだろう。興味津々で尋ねる運転手に、少し不満そうな顔で虎臣が応じる。
「そうだよ、引越し。でもあんまり長く、これから行く家に住むつもりはないんだけどね」
「虎くんっ」
「運転手さん、住所の家知ってる?葛さんっていう、大きい家らしいんだけど」
「知ってるよ、南国荘(ナンゴクソウ)だろう?」
いつもこの辺りを走っているのだろう。訳知り顔で答える運転手の言葉を聞いて、虎臣は嫌な予感に眉を寄せた。
「南国荘って、何?」
「ここいらの連中はそう呼んでるんだ。熱帯雨林みたいな家だから」
「え〜…暑そうな名前…ボク初めて行くんだよけど、そんなに?」
「じゃあ驚くだろうよ。門から中が見えないくらいジャングルになってるんだ」
運転手の言葉はちょっと言い過ぎだ。
たしかに鬱蒼とした庭だが、門からはちゃんと道が整えられているし、屋敷も外から見えないほどじゃない。しかし元から乗り気ではない虎臣は、運転手の話を聞いて、いっそう嫌な顔をする。
「やっぱヤメようよ千歳さん…ボク千歳さんと一緒なら、どんな狭いとこでもいいからさあ」
「そう言わないでよ…もう決めたことなんだし、今更やめるなんて言ったら、理子(リコ)さんや葛に何言われるか」
「そうだけどさ」
むすっとした顔で黙り込んでしまった虎臣は、この話に最初から反対だった。
千歳としても、南国荘と呼ばれる屋敷のあれやこれやを思い出せば、気は進まない。しかしここまで来て、もう引き返すことは出来ないのだ。
――ほんと、なんでこんなことになったんだっけ…
もう何度目だろう。大きな溜息を吐き出してしまう。
ちらりと見上げた先のミラーで運転手と目が合った千歳は、曖昧に笑ってその時のことを思い出していた。