ちらっと蓮を見上げる。普段どおり黙っているけど、画策していたことを千歳に知られて、かなり焦っているようだ。
「あー…千歳?」
「なに」
「遅れるぞ」
指さす時計は、確かに8時前。
いつも千歳がしているみたいに、言葉を探しておろおろする蓮は、とても愛しいと思うけど。だからこそ千歳は、もう少しこのまま困らせておこうと、顔を背けてしまう。
「わかった。行ってきます」
「ちーちゃん、虎ちゃん、いってらっしゃい」
『二人とも、気をつけて行くんだよ』
笑顔で声をかけてくれる榕子とラジャのそばで、今日は伶志と雷馳も手を振っている。葛家の人々に見送られ、虎臣と一緒に屋敷を出る。
いつものように蓮は、門までの短い距離をついて来てくれた。
南国荘の入り口、門で立ち止まった千歳が振り返ると、蓮が「気をつけてな」と送り出す言葉を呟いてくれる。
千歳は再び蓮のシャツを掴み、顔を寄せてじとりと睨みあげた。
「蓮、帰ったら詳しく聞くからね。逃げたら許さないよ?」
「…ああ。待ってるよ」
苦笑いの蓮に返され、千歳は思わず表情を崩してしまった。
待っていてくれた。ずっと。
蓮に振られたのだと思い込んで、一人で泣いていた夜、こんな幸せで騒がしい毎日がくると、想像できただろうか。
慌てて蓮を離し、駅までの道を足早に歩き出す。ここでの日々は、蓮と理子に用意されたものかもしれないけど。でも確かに千歳だけだったら、一歩も踏み出せなかったかもしれない。
「そんな、怒んなくてもさ」
虎臣は穏やかに言葉を紡ぎ、南国荘を振り返って、後ろ向きに歩きだした。
「楽しいじゃん、毎日」
「虎くん…」
「ボク、ここへ来たばっかりの時は、イヤでしょうがなかったけど。今は毎日楽しいよ。学校から帰ったら、絶対榕子さんが待っててくれるし」
「…うん」
マンションで暮らしていた頃、共働きの若い両親は忙しく、虎臣は毎日の大半を一人の部屋で過ごしていた。
あの頃もそれなりに楽しかったが、今の方がいいと虎臣は呟く。
「落ち込んでるヒマもないんだ。蓮さんは食え食えうるさいし、伶と雷はいっつもからかうし。お母さんはいないけど、千歳さん…お父さんが、いるもんね?」
「そうだね…」
千歳も南国荘を振り返る。
門のそばで、蓮がずっと自分たちを見守ってくれていた。
緑に囲まれた南国荘。何も知らないまま巻き込まれた、騒がしい屋敷だけど。もうここ以外で暮らしていくことなんか想像できない。
「千歳さん!時間、遅れるっ」
「え?うわ、走るよ虎くん!」
慌てて駆け出した千歳は、幸せそうに笑っている。その姿が見えなくなるまで、蓮はずっと南国荘のかたわらに立ち、二人を見送っているだろう。
《了》