B:蓮
蓮の疲れは酷くなる一方だ。
もちろん、仕事や家事じゃない。咲良のことだ。
家の中に飽き足らず、仕事先までも付いてこようとする。隙を見ては口説き、触れてくる咲良。
そもそも日本人としては長身の蓮にとって、自分より背の高い咲良は、同性だと言うことを差し引いても苦手な部類なのに。
学校はどうしたと問えば、始まるのは4月からだと言う。だったらそれまでギリシヤにいればいいものを。
咲良は3月に一時帰国するつもりではいるようだが、それまではバイトをするつもりもないようで。
確かに留学中の身で働くには制限がある。蓮としてもこの件に関しては、強く言いようがない。
実際、全力で拒否できないのにはいくつか理由がある。
なにより彼が世話になった六浦の息子であること。しかもギリシヤ人の彼を、慣れない日本で無碍にすることは出来ない。
しかも…なんというか、彼が絵になるのは認めざるをえないだろう。
蓮を越える長身。まさにギリシヤ彫刻のような体つき。写真で見たことのある彼の母親に似た、彫りの深い顔立ち。甘い栗色の髪や瞳。
蓮は仕事先にくっついて来た咲良を、周囲の薦めもあって、撮ろうと思っていた風景の中へ立たせてみた。何枚か撮ったその時の写真は、不本意ながらいい出来だったと思う。
しかしそれが、千歳の不機嫌に火を注いでしまったのは事実で。
そう、何より蓮を困らせるのは、咲良ではなく千歳なのだ。
蓮が咲良になびくようなこと、あるわけがないとわかっているはずなのに、千歳の不機嫌は日を追うごとに悪くなる一方。
咲良を引き離すため、なにかと家を空けるようになった蓮にとって、家事を手伝ってくれている蒼紀の存在はありがたかった。
ありがたいのだが、家を空ければ千歳とすれ違う。どうしたものかと、さすがに溜息をつく蓮を、虎臣が笑っていた。
そして、気付く。
この少年にも何か、考えていることがあるようだ。
夜のキッチンで、いっこうに離れようとしない咲良を、蓮は少々強引に部屋へ追い返した。今まではオトナの余裕であしらっていた蓮が、強い調子で言うのに、さすがの咲良もしょげた顔になる。
大きな空あだで肩を落とし、部屋へ戻っていく咲良を見て、虎臣が笑う。
「ひっでー言い方」
「…何か飲むか」
「え?」
「あるんだろ、何か」
言いながら眠りを妨げるお茶をやめ、ミルクを温めている蓮に、虎臣は少し驚いた顔になって。それから苦笑いを浮かべる。
どうにも敵わない。
「…なあ、あのさ。二宮さんって、最近ここの家事手伝ってんじゃん。あれって蓮さんが頼んでるんじゃないよな?」
「ああ」
「でも、助かってんだろ?」
「そうだな」
「だったらさあ…そう言ってあげなよ。いっつも手伝いながら、迷惑かなって、やってもいいのかな?って顔してんの…なんか、可哀想で…」
どこか不安げで、いつもおどおどしている蒼紀。最近はマシになってようにも思うけど、虎臣には気になって仕方ないようだ。
一生懸命千歳を守ろうとしていた虎臣にとって、蒼紀は似たような存在なのかもしれない。
蓮は少し考えて「お前が言ってやれ」と呟いた。
「オレぇ?…だってオレ、まだガキだし…そんなん、どう言っていいか、わかんねえよ」
「別に年のことは関係ないだろ。気付いたとき、思いついた言葉で言えばいい」
「…傷つけたり、しないかな」
「お前の言葉が本心なら、必ず伝わる」
「うん…」
「もちろん俺も、気をつけておく」
「…わかった。やってみる」
「ああ」
穏やかに話す二人は、ほんのたまに、こんな時間を共有している。
しかし蓮は、それを見ている「お父さん」に気付いていなかった。