甘く接吻けて【特集】前編 P:04


 
 
 
 炯と旭希が初めて出会ったのは、中学の入学式。まだ肌寒い春の日には、薄紅の桜が満開だった。

 指定されていたクラス発表の場所へ向かう炯は、一人のんびりした歩調で歩いている。
 周囲は大抵、母親と一緒だったり友人と一緒だったりで、一人でいる者はほとんどいない。炯も学校に入ったときには母親と一緒だったのだが、校門を通るなり彼女は満開の桜に目を輝かせ、息子そっちのけでシャッターを切り始めたのだ。デザインの仕事をしている彼女が、夢中になった時の集中力を、炯はよく知っている。途中までは傍で付き合っていたが、さすがにこのままじゃ遅れてしまうんじゃないかと思い、母に声をかけて一人歩き出していたのだ。
 昨日まで、息子の制服姿に夢中だった両親には、さんざんカメラを向けられたことだし。きっと入学式が終われば、桜の下に立ての、校舎に寄りかかれのと、執拗に付き合わされるんだろうなと思いながら。

 近くの小学校、三校がこの中学の「学区」に指定されている。
 成績の優秀だった炯は小学校の教諭たちに、私立や国立中学への進学も勧められたのだが「だって近いから」と言い放って、進路を決めた。
 私立は金がかかる。
 国立中学は遠くて、交通費がかかりすぎる。
 少しでも両親に負担をかけたくないと思っていた炯には、選択対象にもならなかった。両親が負担などと思うはずがないのはわかっていたが、炯は去年知った自分の出生に悩みすぎて、いろんなことが面倒になっている真っ最中だったのだ。何もしなくても地元の公立中学へは進学できるのだから、余計なことは考えたくなかった。
 両親まで「炯の好きにすればいい」などと言うのでは、初めて国立へ生徒を進学させられると勝手に盛り上がっていた小学校関係者も、諦めるしかなかっただろう。

 目的の場所へ着くまで、ちらちら向けられる熱っぽい視線に、炯は一度も振り返らない。慣れ、というのもある。いやそれよりも、面倒くさいというのが本心。
 炯は幼い頃から、とにかく人の興味を集める存在だった。なによりこの、絵に描いたような容姿では仕方なかっただろう。
 少年らしい華奢な肢体に、透けるほど白い肌。色素が薄いのか瞳も髪も茶色くて、しかし染めているような不自然さがないから、全体に淡い光を閉じ込めているようにさえ見える。病弱だったせいか、どこもかしこも造りが繊細で、同年代の少年たちと並んでも、ひとまわり小さく感じるほど。黙っていれば性別さえ疑わしく思えてくるような、きれいな顔立ち。大きな瞳が柔らかな光を宿していて、クセ毛でゆるくウェーブを成している髪とよく似合っている。
 少女漫画というより、宗教画から抜け出してきたような少年。そこにいるだけで周囲の視線を集めてしまうのは、炯にとって煩わしいものでしかなかったが、しかし炯を見つけてしまった人々が思わず足を止め、息を飲むのは当然のことだ。
 きょろきょろすることもなくまっすぐ歩く炯は、ふと聞こえた名前に少しだけ首をかしげた。
 ――また、同じ名前…
 自分の名前を囁かれるのは、いつものことだとして。もう一人、周囲が口にしている名前がある。高沢、という生徒の名前。
 ――あれ、高沢だろ…
 ――あいつ、ここ入ったんだ…
 ――うわ、高沢じゃん…
 ――やっぱ怖いよな…
 ――もう先輩から呼び出されて…
 世間が口さがないのは、よく知っている。しかし鬱陶しいくらいの歓迎をひそひそ囁かれている自分とは違い、その高沢という生徒は、なんだか面白いくらいに嫌がられていた。まるでドラマだなあと、炯は興味を引かれて噂の人物を探してみる。
 怖い、おっかない、ヤバい。中学生でそんな言葉を送られている少年。どんな人物なのか、見当もつかない。遠巻きにされ、
自分と同じように一人で立っている新入生が、噂の人物だと気づいた炯は、思わずどきっと立ち止まってしまった。

 じっとこちらを見ている、不躾なほどの視線。炯よりいくぶん背が高いようだが、そんな恐れられるほど怖いイメージもなくて。ばっちりぶつかってしまった視線に、炯はにこりと笑ってみる。
 炯に微笑みかけられた相手の反応は、大概決まっていた。何を考えているのか、かあっと赤くなったり。思わずといった感じで、笑い返してくれたり。まあたいていは、自分が微笑みかけられたのだと思わず、慌てて周囲を見回したりする。中学生の炯に処世術という自覚はなかったが、自分がこうやって笑みを浮かべることで、面倒ごとを避けられるのは知っていた。
 知っていたから。
 自覚していなくても、微笑みの効果を活用して生きてきたから。
 その時、炯は心底驚いていた。
 ――あ、れ……?