「だって高沢くん、まだ校内にいるかもしれないし。善は急げって言うでしょ?」
「え〜〜?それって逃げ口上じゃないか?」
「もう半分も無いんですから、あとは自分でやってくださいっ!」
子供っぽい顔で舌を出した炯にぴしゃりと扉を閉められて、呆気にとられた一条は声を立てて笑っていた。
放課後の校舎というのが、炯は結構気に入っている。学校を楽しいなんて、思っていたのはずいぶん遠い記憶だが。一人で歩く人気の無い夕暮れの空間は、なんだか静かなのに音が途絶えなくて、居心地がいい。
閉め忘れの窓から外を眺めていた炯は、う〜んと体を伸ばして、振り返った。ただいま、高沢旭希を探索中。少し疲れてきたが、それでも人探しは案外楽しいものだ。
生徒会室を後にした炯は、まず旭希のクラスに向かった。旭希の鞄が残されているのを見つけ、教室に残っていた生徒に旭希の所在を確かめてみれば「鞄があるから帰ってはいないようだが、行き先はわからない」と、炯と大差ないことしか知らない様子。
高沢なんかどうでもいいから、自分たちと話そうとでも言い出しそうな気配を察して、笑顔を浮かべた炯は礼を口にしながら教室を離れて行った。
旭希がどうというわけじゃなく、炯は自分の行動を人に決められるのが好きじゃない。面白いものなら自分で見つけたいし、興味があるところへは自分の足で行きたいのだ。
幼いころ病弱で、ずっと病室の窓から外を眺めていたせいだろうか?いま立ち止まることで失う何かが、痛いくらいに惜しいのだ。自分の足を止めようとするものの相手なんて、何であっても面倒。
名前もろくに思い出せないトモダチとか、何でも話してみなさいなんて親切ごかしに話しかけてくるセンセイも。目下の興味対象は、旭希だけだ。
ただ、旭希に何かを期待しているわけじゃなかった。相変わらず炯に、旭希と特別親しくなる気は無い。単に旭希がいままで、炯のそばにいなかったタイプだというだけ。この時の炯は、とにかく無責任に手を出して、旭希をつついてみたいだけだった。
帰宅部で友人のいない旭希を探すのなんて、わけないと思っていた炯は、意外と手間取って学校探検を続けている。
職員室か図書室だろうと思っていたのに、行ってもそこに旭希の姿はなく。部活を始めたなんて話は聞いていないが、炯が知らないだけだろうか。いや、旭希の話で炯が知らないことは、ほとんどないはずだ。
何を勘違いしているのか知らないが、旭希の話なら炯が飛びつくとでも思っているのだろう。周囲はとにかく旭希の話を振ってくる。それこそ鬱陶しいくらいに。知らなくてもいいことまで聞かされるのは、正直うんざりだ。
旭希の話は旭希から聞けばいいのであって、話してくれないから炯は旭希を構うのだし、そんな難攻不落の野良わんこ攻略だからこそ、楽しいのに。
――明日はみんな、一条先輩の話ばっかりするんだろうなあ…
今日、一条に連れて行かれたことが知られれば、また煩くクラスメイトたちが付きまとうに違いない。
考えるだけでも溜息をついてしまいそうな炯は、届いた音に気をとられてぴたりと足を止めた。
空き教室のドアに手をかけたまま振り返る。
――なにこれ…ピアノ?
どこからともなく流れてくる旋律。
どちらかといえば音楽に造詣の深い方ではないし、両親の趣味で家にかかっているのはアメリカンオールディーズばかり。クラッシックなど、聞くだけで眠くなってしまう方なのだが、その旋律は驚くぐらいに心地よくて、炯は引き寄せられるように音のする方へ近づいて行った。
学校でピアノのあるところなんか、限られている。音楽室か体育館くらいだ。方向から考えても音楽室に間違いないのだが、炯には音楽室へ向かっている自覚がなかった。ただ本当に、吸い寄せられるように音のする方へ歩いていく。
旋律の形作る曲は、CMかなにかで聴いたことがあるように思うのだが、タイトルまではわからなかった。それにテレビから流れてくるよりも、ずっと柔らかい感じがする。
誰が弾いているかもわからずに引き寄せられ、たどり着いた音楽室の前。炯は手をかけたドアからそっと離れた。ここを開けてしまったら、心地いい音がやんでしまうような気がして。
静かに後ずさり、廊下の壁に背をつけて座り込む。
音楽室から零れてくるピアノの音は、ゆっくりと柔らかい塊になって、ふわふわ浮かびながら炯の周囲を回っているような気がした。少しだけ肌に触れると、まるでしゃぼん玉のように、ぽん、と弾けて身体の中へ溶け込んでくる。