【初恋】 P:04


 彼の穏やかな声は耳に心地いい。わかりやすい言葉を選ぶせいか、じんわり人の心に響く話し方をする。
 秘書である私のことなど、運転手ぐらいにしか把握していなかっただろう頃でも、時折「疲れてるんですか?」とか「何かありました?」などと聞いてくることがあった。
 そしてその問いは、大概的を射ているのだ。
 あなたには関係ありません、と。
 撥ね付けてしまうことも簡単なのだが、つい意に反して愚痴を聞かせてしまう。そうした社長のいない送り迎えの短い時間は、どうにも私の心を癒してしまっていて、いつの間にか楽しみなものになっていた。

 しかし基本的に、私はこういうタイプの人間が好きではない。無遠慮に人の心をかき乱し、責任をとる気もないくせに余計なことを言うタイプ。
 というのも、もう十年近く会っていない私の両親が、いつも「何でも言ってみなさい」と傲慢な顔をする人たちだった。そのくせ話をしてみれば「それはお前がコドモだからだ」と、解決にもならないことを言うのだ。
 どうせなら社長のように「お前の葛藤など、私の知ったことか」と、自分が要求するばかりで何も与えない人間の方が好ましい。

 私の両親のような人々は大抵、愛されて育ち、それに疑問を抱かず、己の狭い世界をこの世の全てだと信じている。
 自分の出す答えはいつも正しく、逆らうものは全て悪で、理解できないものは異常……そういう、単純な思考で出来上がった人間。
 二階堂という人間を知ったばかりの頃、私は彼も同じタイプの人間だと考えていた。だからこそ社長の二階堂に対する興味の持ち方を理解できなかったし、なにより私自身が二階堂に警戒心を持てないでいることを、受け入れられなかった。

 二階堂を調べるということが、社長の彼に対する興味を知ると共に、私自身がなぜ彼を拒絶しないのかを知る作業だったのは確かだ。

 二階堂炯の生い立ちは、けして単純なものではなかった。
 人を使い細かく調べてみても、私は彼がいつ自分の出生を知ったのかを突き止められなかった。
 まだ赤ん坊の頃に両親を亡くし、親戚である現在の両親に引き取られた二階堂。彼の両親がこの事実を話した十八のとき、彼は「知っていた」と答えたのだという。
 しかしどの時点で彼が自分の出生を知ったのかは、誰も知らない。つまり彼は、ずっと一人でその秘密を抱え、生きていたことになる。

 二階堂に親しい人物は、彼を「破滅型の人間だ」と評していた。
 彼は「常に終わりを頭において動く人間」だというのだ。だがそれを周囲になかなか悟らせないから、たまに冷徹なイメージを抱く人間もいるのだと。
 二階堂の別れた妻などは、いい例だろう。
 私が派遣した人間と酒を飲み、酔った彼女は「あの人は自己愛が強くて、自分以外の人間はどうでもいいと思っているのよ」と語ったそうだ。
 彼女の言葉が二階堂の本質なら、彼は社長から妻の名で脅されたとき、簡単に屈したりはしなかっただろう。

 何でも持っているくせに、何も持とうとしない。手に入れた全てものを、自分のものだと信じられない人物。
 それが私の中に新たに生まれた、二階堂炯の印象だった。
 彼は恐ろしいほどの孤独を抱えて生きている。
 いつもにこにこと微笑み、他人を労わるくせに、相手からの好意を信じていない。

 調べていてふと、私は二階堂の本質が社長に似ているように感じた。
 社長は明確に存在するものしか信じない。それは自分に向けられる他人の想いを信じられない、二階堂と似ているような気がする。



 社長と二階堂の関係が一年を数える頃。
 私は社長が、見覚えのない携帯電話を手にしている場面に遭遇した。
 プライベートとビジネスを分けることなど、普通のことだと思われるだろうか?しかし社長に限って、そんな面倒なことをする理由が思い浮かばない。
 本っ当にこの人は、自分勝手に我が道を歩く人なのだから。
 忙しかろうが、予定が詰まっていようが、自分の意志を曲げることなどない。そんな人が、携帯を二台も持つ意味があるか?面倒だと思う方が、優先しそうなものなのに。
「…携帯、変えられたんですか?」
 社長が、自分で?
 自らの足で携帯ショップへ行って?
 絶対にアリエナイ、ということをわかっていながら、私はあえて聞いてみた。
「…いや」
「二台目ですか?」
「…ああ」