中ではきっと社長が、まだ納得出来ずに困惑して、新しい携帯電話を眺めているだろう。
本当に社長は、二階堂に会うまで何事かに執着する姿など見せなかった。
手に入らないものを要求されたとき、私がその旨を説明すると彼は「なんとかしろ」と言うのだが、それは慌てる私を面白がっているだけで、何としても欲しがっているわけではない。
半年ほど前だったか、二階堂の主宰している劇団の公演チケットを、手に入れろと言われたときのことだ。命じられるまで知らなかったが、AZのチケット手配は困難極まりない仕事だった。
とにかく手に入らないのだ。
今までに三度AZのチケットを手配したが、毎度の苦労は信じられないほど。
チケットの販売業者が行う受付には電話が繋がらない。抽選になっている前売りでも、応募多数につき落選。結局は毎度毎度、ネットオークションを使って用意するしかない。
つまりは倍額のチケットになるわけだが、金額のことよりも、手配を命じられるたびに時間を割かれ、他の業務に支障が出ることこそ問題だった。
いっそ二階堂自身に用意させればいい話なのだが、私がそう言っても、社長は聞こえないフリでそっぽを向く。何より自分が舞台へ足を運んでいることを、二階堂に知られたくないらしい。
あの社長が。
小娘やガキに混ざって、舞台を見ているなんて。
素性を知っているだけに、私には毎度驚愕以外のナニモノでもなかったし、社長自身が二階堂に知られたくないと思うのも、わからなくはない。
この頃には私にも、社長が二階堂炯に執着していることがわかってきていた。
ため息混じりに「いい加減、手に入りませんね」と呟いた私に対し、社長は「いっそここへ入ってしまえ」と言い出した。渡されたチラシには「本年度、ファンクラブ登録に関する詳細」という文字が印刷されている。
……は?ファンクラブ?しかも……
「私が、ですか?」
「当然だろう?」
「私が入るんですか?コレに?!」
ファンクラブ、なんて。口にするのもちょっと躊躇われる組織。
ヤクザがファンクラブ?!
冗談であってくれと祈る私を笑い飛ばし、やけに楽しげな社長はこれ見よがしに仕事を始める。そのまま顔を上げずに、社長はお前の為だなどと言い出した。
「なんでコレが私の為なんですか?!」
「チケット手配に苦労すると言ったのは、お前だろう?」
「それは、そうですけど。だからって…」
「これ以上仕事が遅れるのも、問題だと思ってな」
「誰のせいですかっ!」
それは毎度毎度、二階堂にかまけてあなたが仕事をサボるからでしょうが。
チラシを片手にダラダラ冷や汗をかいている私をちらりと見上げ、社長はくっと喉で笑う。……完全に面白がられてるな……。
「どうした橘、返事が聞こえないな」
「…いっそ、あなたが入ればいいじゃないですか」
「私が?バカを言うな。私にそんな滑稽なマネをさせるつもりか?」
「滑稽って!じゃあ私はどうするんですかっ」
あなたは本当にっ!人に嫌がらせをするのがそんなに好きですかっ!
からかわれていることをわかっていてなお、二の句を告げないでいる私の前で、仕方ないな、と大仰に肩を竦めて見せた社長は、肘を突いて手を組んだ。
「…橘」
「なんですか」
不満な顔を隠さない私が社長を見つめると、彼は口元に笑みを刷いていた。最近見せるようになった、イタズラをする子供みたいな笑み。
「命令だ、と言った方が、わかりやすいか?」
「社長…」
くそ…絶対に逆らえない伝家の宝刀、持ち出しやがった。
無言で踵を返した私は、自分のデスクから束になっている仕事を持ち出し、社長の手元に置いた。これくらいの意趣返し、当然だ。
「お話は了承しましたから。これ、本日中にお願いします」
「…おい」
「本日中にお願いしますっ!私は今からご命令の、ファンクラブに入る手続きを行いますのでっ」
くるりと背を向けた私の耳に、社長の嫌そうなため息が届く。久々にしてやったりと、ほくそえんだ。
私にこんなことをさせるくらい、執着しているくせに。社長はいまだ自身の変化を受け入れようとしない。
受け入れないというよりも、理解出来ないでいるようなのだ。
社長はとても論理的な人だ。