【初恋】 P:08


 泣けないオトナは、なんて悲しいものだろうと。社長のそばにいた私は、二階堂を恨んだくらいだ。

 二階堂がいない間、社長はほとんど軽口を叩かなくなった。しかし業務がはかどることに、私は少しも喜びを得られないでいた。
「橘」
 呼ばれて振り返った私は、社長が苦笑いを浮かべているのを見て、自分の心配を見透かされていることを知った。恥じ入るばかりの私に、社長は「飲みに行くか」と。
 初めて私を、個人的に誘ってくれたのだ。

 二人で肩を並べ、夜の繁華街を歩くのは初めてだった。秘書として共をしたわけではなく、同じ男として、初めて私は鷹谷慎二とグラスを傾けた。
 二階堂を連れて来ていた店で、社長が二階堂の為に取り寄せた、高価なウィスキーを抜いた。
「無駄にならずに済んだな」
 少し照れたような顔をしていた。
「美味いです」
 心底そう思って、答えていた。
 二階堂と飲み、甘い時間を過ごすはずだった酒を、私などと飲んでいるのに。社長が少しでも報われたと言ってくれたのだ。それ以上の言葉はなかった。

 この人についてきて、本当に良かったと思った。いま隣に座っていられる自分を、誰より誇らしく思った。
 二人で酒を傾ける時間は、いつもよりずっと言葉少ななものだったが、私は十分に満足していたし、社長が穏やかな気持ちで隣にいてくれることも、わかっていた。
「…二階堂さん、戻っていらっしゃいますよね?」
 ぽつりと零した私の言葉に、グラスを見つめたままの社長は、曖昧な笑みを浮かべて「どうだろうな」と答える。
「戻っていらっしゃいますよ」
 私がきっぱり言い放つと、社長は肩を竦めていた。
「やけに自身ありげな言葉だな」
「もちろん。あなたの予測が外れたことがないのは、誰より知っていますから」
「…なるほど?」
 ふっと、社長の纏う空気が優しくなったように思えて。私は彼の顔を覗き込んだ。
「本当はあなたが一番、そう思っていらっしゃるんでしょう?」
「そんな風に見えるか?」
「見えます」
 寂しがっているようには見えていたが、二階堂が戻らないことを不安に思っているようには見えなかった。即答する私を見ずに、社長は肩を震わせて笑った。
「まったく…可愛げのない奴だな、お前は」
「結構ですよ。私は鷹谷慎二の、秘書なんですから。あなたみたいなワガママな人の秘書なんか、可愛かったら勤まりません。それとも私がひんひん泣いているところでも、見たいんですか?」
 相当気持ち悪いですよ、と。ふざけて言う私に、社長は声を立てて笑っていた。
 私なんかがあなたの寂しい気持ちを紛らわせていられるなら、どんな道化でも構わない。だからどうか、あなたの中に生まれている、新しい世界の扉を閉じてくれるなと。そんなことばかり祈ってしまう。
 私はもしかしたら「佐久間の鬼」を殺そうとしているのだろうか?
 でも彼が二階堂に惑わされ、自分は人間だったのだと気づく為なら、それでもいいと思えて仕方ない。



 今、社長はデスクの上の仕事に興味を失って、窓の外を眺め物思いに耽っている。
 これまで目に見えるような癖はない人だったが、右肘をついて手の上に頭を乗せ、左手の指先でコツコツと肘掛を叩いているあの仕草は、最近になってよく見かけるようになった、社長の癖。
 二階堂炯のことを考えている時にだけ見せる、彼の人間らしい姿。

 二階堂はやはり、社長の元に戻ってきた。同時に仕事をさせたい私と、サボって二階堂に会いたい社長との攻防戦も、再開されている。
 詳しいことは聞いていないが、先日彼は私を宥めすかして無理やりもぎ取った休暇を、二階堂から当日になってキャンセルされたらしい。
 相変わらず二階堂は、怖いもの知らずな人だ。社長に無駄足を踏ませるなんて。
 二階堂が同棲している高沢旭希の体調不良だというのでは、社長も引くしかなかったのだろう。高沢旭希は二階堂の恋人であると同時に、社長が唯一敬愛を注ぐ佐久間組長の一人息子なのだから。

 社長の後ろ姿を眺めつつ、私はここのところ取り付かれている考えを、蘇らせていた。
 社長を見守りたいと思う。
 この人が変わるのは、喜ばしいことだとも思っている。そうさせるのが二階堂炯だということにも、もはや拘りなどない。
 ただ……何というか。本当に社長にとって、初めての変化なのだろうか?