大きな手が愛しげに、桜太の髪を撫でていた。
……物足りないのは、時雨だって同じだけど。
隙あらば圭吾との約束を反故にしようと企む桜太とは違い、時雨の方は半分諦めがちに、圭吾との約束を守る気でいる。
年の差か経験の差かはわからないが、時雨はこうしてわずかに肌を触れ合わせ、微笑みあっているだけでもかなり満足しているのだ。
……幼な妻の方がどう思っているかは、ともかくとして。
「あのね、今日旦那様に呼ばれてね。おつかいを頼まれてくれるかいって、言われたんだよ」
桜太の髪を撫でるために塞がった時雨の右手。空いている左手に手を伸ばし、桜太は甘えるように指を絡めた。
「おつかい?」
「うん」
「おつかいなら、いつもしてるじゃないか」
不思議そうな時雨に、桜太は楽しげな表情でくすっと笑った。
確かに桜太は、近江屋の主人や弥空に頼まれ、この町の中の客先や仕立て屋、馴染みの店などによく出掛けている。人懐っこい桜太は、誰からも好かれるので、そういった外回りに出ることが多いのだ。
「違うの…この町じゃなくて、街道沿いの隣町まで。一人でおつかいに行くんだよ」
すごいでしょう?と、桜太が笑う。
桜太の言う隣町は、ここからそう遠く離れているわけじゃない。大人の足なら二刻もかからないし、桜太の足であっても半日はかかるまい。
二人の住む町より小さいが、賑わったところだ。大した距離ではないのだが、一度も行ったことのない町へ、しかも一人で。
初めてのことに、桜太は不安よりも喜びばかりを感じている様子。
「旦那様が、ご自分の代わりだって。そう仰ったんだよ!」
それは桜太のような立場の者にとって、大変に名誉な仕事だ。
主人の名代といえば、弥空か番頭に決まっている。なのに近江屋の主人は、店の用ではなく個人的な届け物なので、是非桜太に行ってもらいたいのだと言っていた。
耳を疑うような、初めての大役。
桜太には主人の言葉が、大きな信頼を寄せてもらえたように聞こえて、嬉しくてしょうがない。
「本当はね、弥空さんに行ってもらうつもりだったんだって。でも弥空さん、明日忙しくて…」
「明日?」
あまりの唐突な話に、時雨は思わず聞き返していた。
「え?…うん、明日だよ。明日の朝一番に発って、夕方には帰ってくるつもりだけど…時雨?どうしたの」
一緒に喜んでくれるものだとばかり思っていた時雨が、なにやら渋い顔になっている。桜太はきょと、っと首をかしげた。
「どうしたの、時雨」
「いや……」
「ぼく何か、変なこと言った?」
愛しげに髪を撫でてくれていた手が離れていって、心を繋ぐように絡み合っていた指がほどかれる。そのまま時雨は腕を組み、難しい顔で考え込んでいた。
「時雨?」
「桜太…それ、さ。別に桜太じゃなくてもいいんじゃないのかい?」
「え……」
「誰に何を届けるんだって?」
「旦那様のご友人の奥様に、簪(かんざし)をお届けするんだけど…」
「だったらさ。それ別に、誰が行ってもいい仕事じゃないか。お義父さんのことだから、ちゃんと書状を用意していらっしゃるんだろう?」
「………」
「わざわざ桜太が、そんな遠いところまで一人で行くこと、ないんじゃないの」
はあっとため息をついた時雨は目を伏せていて、桜太の顔を見ていなかった。
とくに大層なことを考えて反対しているわけじゃない。
隣町とはいえ、あそこは繁華街で、茶屋や居酒屋の多いところだ。
この町のように商家が中心で物流の拠点になっているわけではなく、どちらかといえば街道を旅する者のための、安宿と飲食店が多く軒を並べている。
丸一日かけて、桜太がそんなところへ行くなんて。しかも一人で行って帰るなんて、時雨には心配でたまらないだけ。
……ならば、そう言えば良かったのだけど。
中途半端な物言いをしたせいで、時雨が顔を上げたとき、桜太はすっかり不機嫌になっていた。
「お、桜太?」
相手はまだまだ子供なのだ、ということを、つい時雨は忘れてしまいがちだ。
桜太の言動は普段から落ち着いていて、同世代の子供たちよりずっと大人びている。そのせいか時雨は、心を預けることに慣れ、桜太に対して安心しすぎる傾向があった。
桜太ならわかってくれる、と無意識に信じるあまり、己の行動に細やかな心遣いや、必要な言葉が足りていないことを、気づけない時があるのだ。
今も、そう。
「ぼくにはまだ早いって言いたいの?」
「いやいや、そういうわけじゃないよ。桜太じゃ駄目なんじゃなくて、誰でもいいんじゃなかって、そういう意味で…」
「同じでしょ!!」
伸ばした手を払われ、時雨は驚いて目を丸くした。
「どうしたんだい?」
「誰でもいい仕事だから、ぼくみたいな子供に任せないほうがいいって言いたいんでしょ?!」