「何言ってるの。違うよ桜太…」
そういう意味じゃない、と曖昧に笑う時雨は、どう説明したものかとため息をついた。
仕事の難易を言ってるんじゃない。
単に時雨は、自分の目の届かないところへ桜太をやりたくないだけなのだ。
信じていないとか、頼りないとか言うことじゃなくて。まだ甘い声で囁きあうようになって、そんなに経ってもいないのに、桜太との距離を持ちたくないと。
……そういう意味なのだが、言わなければ、わかるはずもない。
「あのさ…」
なんとか自分の気持ちを伝えようと、口を開いた時雨の前で、桜太は眉を寄せた表情のまま、すくっと立ち上がった。
「帰る。」
「は?…ええええっっ?!」
時雨が引き止める間もなく、桜太はすたすた襖へ近寄ると、すばやくそこを開け、思い切り乱暴に閉めた。
ばん!と、大きな音。
軽やかな足音が怒りを滲ませて、相模屋の階段を降りていく。
「帰るって…ちょっと…」
呆然とする時雨は、桜太を捕まえようとして行き場をなくした手を、悲しそうに見つめた。
――まだ何もしてないんですけど…
微笑みあうだけでも、幸せは幸せなのだけど。圭吾との約束通り、最後まではしないにしても、思う存分桜太を可愛がってやるつもりだったのに。なぜこんなことになってしまったのかと、時雨は肩を落としてしまう。
大体、相模屋で二人きりになれたのも、三日ぶりなのだ。
……唇を重ね、髪を撫で、指を絡めただけで、愛しい人に置き去りにされて。
ちらりと畳んだままの布団に目をやった時雨は、がっくりうな垂れていた。
大きな街道は、朝から先を急ぐ人で賑わっていた。
住み慣れた町を出て、一刻ほど。
すれ違いざま、不審そうな視線を送られている人物は、気配を消すのに忙しく、自分が注目されていることに気づいていない様子。
仕立てのいい地味目の着物を身につけ、目深に顔を隠した編み笠。二本差しでも差していれば、役人に見えたかもしれない。しかしその男は、手ぶらで歩いている。
うねうねと長い髪をひとつにまとめ、背中に流している姿。
少し笠を上げ、視線を向けるのは前方を一生懸命に歩いている少年のようだ。
少年の凛とした後姿に、距離を保っている男は口元を綻ばせた。
無精ひげの口元と、優しい瞳。
この様子を近江屋の優秀な跡継ぎ、弥空が見かけたら、きっと眉を顰めて言うのだろう。
――父、何やってんですか。
と。
ゆっくりした歩調で、桜太の後をつけているのは時雨だった。
昨日、あんな風にぶつかり合って桜太と別れた時雨は、仕方ないので自分も相模屋を後にした。
幼馴染みで相模屋の主人をしている喜助(きすけ)に、その姿を見咎められて「ようやく振られたか」などと、失礼なことを言われながら、この行動を考え始めていた時雨。
こっそり後をつけるなんて、冷静に考えれば情けないことこの上ない話だ。
相手は想いを通わせた人で、遠出の目的は仕事。青空にお天道様が輝き、夜道を行こうというわけじゃない。
桜太が浮気なんてあるはずがないし、まかり間違っても仕事をないがしろにしたりしない子だということは、誰より時雨が知っている。
それでもこの男は、いてもたってもいられず、黙って桜太の後を歩いているのだ。
変装に近いような出で立ちで、懸命に気配を消しながら。
訝しがる周囲の人々から、注目されていることも気づかずに。
弥空や圭吾、喜助たちが知ったら、情けないのを通り越して、呆れ果てることだろう。
しかし桜太の後をつける時雨は、こう見えて真剣なのだから、手に負えない。
桜太の向こうに、隣町の入り口が見えた。旅立つ人々でごった返した町に、小さな人影が紛れ込んでいく。
足早に近寄り、時雨はそっと物陰に身を隠した。
きょろきょろと視線をさ迷わせる桜太は、大柄な男にぶつかって、慌てて頭を下げている。
旅装束の男の方も、申し訳なさそうに頭を掻きながら、桜太に何か、謝罪の言葉を口にしているようだ。
――ぼうっと突っ立ってんじゃないよ、田舎もん。
そうとう理不尽なことを考えている時雨は、桜太の歩き出した方向に気づき、冷や汗を浮かべた。
桜太がつかいを頼まれた先に、時雨は覚えがあった。
そこは弥空がまだ幼い頃に逝ってしまった妻の深夕(みゆう)と、婚礼を上げてすぐに連れて行かれた先。
料理茶屋の益屋(ますや)を営む夫婦は、義父の古い友人で、深夕も随分可愛がってもらったのだとか。
季節が変わるたび、義父は友人の妻に簪を送っている。
料理茶屋などを営んでいると、季節ごとの細工を施した簪や、暦に合わせた着物を着る機会が多い。