【8月特集】 P:05


 呉服屋を営む義父のもとには、当然そういったものがいち早く届くので、挨拶代わりに贈っているのだと聞いたことがあった。

 この町で一番大きい料理茶屋。
 広くもない町なので、すぐにわかると思ったのだろう。地図を持たされていない様子の桜太が足を進めているのは、時雨の記憶と間逆の方向だ。
 はらはらと、時雨はその様子を見つめている。
 そんな時雨の姿を、周囲はじろじろ見ているが、相変わらず彼は気づかない。

 完全に道に迷ってしまった桜太は、川べりで足を止めた。
 小柄な彼の視線では、なかなか町を把握することが出来ないのだろう。ため息をついている姿に、出て行くべきか、見守るべきか、時雨が思案しているときのこと。
 時雨が思うよりも、ずっとしっかりしている桜太は、川べりで煙管(きせる)をふかす船頭に目を止め、近寄っていく。
「あの……」
 桜太の声にはっとして、時雨は物陰に身を隠した。
「おう、どうした?坊」
「休んでるところを、ごめんなさい。益屋さんっていうお店を探してるんですけど、知りませんか?」
 確かに迷ったなら、人に尋ねるのが一番だ。
「益屋ぁ?坊、あんな高ぇ料理茶屋に用があんのかい?」
「おつかいを頼まれて…」
「ははあ、奉公先から面倒頼まれちまったのか。この町は初めてかい?」
「うん、今日が初めて」
「そうかい。おし、こっち来な」
 船頭はこん、と煙管を叩いて立ち上がると、比較的大きな道が見えるところまで桜太を連れて行く。
 見守る時雨は、苛々しながら被っている笠の端を握った。
 ――てめえ、触るんじゃねえっ!
 案内に立ってくれた船頭が、優しく桜太の肩に手を置く姿が気に入らない。
 視線を鋭くする時雨は、飛び出したいのを堪えながら、なりゆきを見つめていた。
「いいかい、この町はよ。どの筋もこの道に繋がってんだ。だから迷ったら、ここへ戻りな」
「うん」
「で、益屋な。ずーっと行ったところに酒屋がある。その角を曲がって、井戸が見えたら左だ。そっからなら坊にも見えるだろうよ」
「ん、わかった。ありがとう、おじさん」
「この町にゃ大通りが三本あるが、全部の筋に繋がってんのはここだけだ。間違えんじゃねえよ?」
 顔を覗き込む船頭に、桜太は微笑んでいる。
「大丈夫だよ、迷ったらこの道に戻ってくればいいんだよね?」
 人懐っこい、明るい笑顔。
 大きな瞳に見上げられ、船頭もにっと笑みを浮かべている。そうしてすぐ、心配そうに顔を寄せた。
「いいかい、坊。他で道を聞いたり、人に声をかけられても、主人の使いやこの町が初めてだってことは、黙ってな」
「え…?」
 不思議そうな顔で見上げる桜太に、船頭は少し厳しい表情を返す。
「坊みたいな子供相手でも、懐を狙うような輩はいるからな」
「ぼく、お金なんか持ってないよ?」
「そうかい、それでもだ。坊みたいに可愛い子は、金なんか持ってなくても、攫われちまうかもしれねえ。用心しな」
 船頭の心遣いに、桜太はきゅっと唇を引き結び、表情を固くして大きく頷いた。
「わかった。気をつける」
「ああ」
 世話を焼きすぎただろうかと、照れくさそうに笑い、桜太の頭を撫でる船頭を見上げて。桜太はにこりと笑った。
「ありがとう、おじさん」
「お、おう。なんかあったら大きな声を出すんだぞ」
「はい!」
「気ぃつけてな!」
 歩き出す桜太が振り返って手を振ると、船頭は気遣わしげに見守りながら、手を振り返していた。
 桜太が行ってしまうのを見届けた後、船頭に近寄った時雨はその肩を掴む。
 背の高い、見たこともない怪しい男から唐突に肩をつかまれて。船頭は驚き、掴まれた肩を大きく震わせた。
「な、なんだいあんた?!」
「よく言った」
「……はあっ?!」
「そうなんだよ。そういうことなんだよねえ」
 掛け値なしに、桜太は可愛い。
 たとえ届け物が簪で、大金を持っているわけじゃなくても。誰も知らない町を一人で歩かせるなんて、危ないにもほどがある。あれだけ可愛いのだから、危険はいたるところに転がっているはずなのだ。
 うんうんと腕を組んで頷いている時雨の言うことがわからずに、船頭は編み笠の男を上から下まで、不審そうに眺めた。
「まあ、親切に免じて、触りすぎたことは大目に見てやるよ」
「だから、何言ってんだあんた?!」
「おっと見失っちまう。船頭、邪魔したね。これで飯でも食いな」
 説明もなく小銭を握らせ、少年の後を追って行った怪しい男。
 握らされた銭と、慌しく立ち去る男の背中を交互に見比べて、船頭はぽかんとした表情のまましばらく立ち竦んでいた。
 
 
 
 この町で、しばらく噂になることは確実だろう。