町を行く人々は物珍しげに歩く可愛い少年に目を止め、微笑んですれ違うとすぐ、でかい身体を物陰に潜める、怪しい男に気づき、ぎょっとなって一瞬、足を止めるのだ。
男は隠れているつもりのようだが、人々にその姿はまる見えで。いっそ先を歩く少年が気づかないことの方が、不思議なくらい。
誰か声かけなよ、と囁きあう人々の声も耳に届かない時雨は、ため息をつきながら桜太の後姿を追いかけていた。
――……また、迷ってる。
船頭の説明は、けっこうわかりやすかったと思う。言われた通りに歩けば、ほどなく益屋へ着いたはずなのだが。どうしてこんなところを歩いているのか、桜太にもわかっていないようだ。
少年自身はきっと、言われた通りに歩いているつもりなのだろう。
ようやく自分が迷っていることに気づいて、桜太が足を止めている。
――気づくのが遅いよ桜太…
心配そうなため息をこぼし、時雨も立ち止まった。
ずっとその後ろ姿を見つめる時雨に、浮かんだ疑念。
もしかすると桜太は、とんでもなく方向音痴なのではないのだろうか、と。
思えば桜太は、村から町へ出てくるとき、時雨に連れられて歩いていた。町での生活が始まっても、行く先々は弥空か近江屋の者から、丁寧に道を教えてもらっていただろう。
覚えのいい桜太なので、一度教えられた道は忘れないようだけど。
本来の桜太は、どうにも行き先を探すのが不得手のようだ。
そう考えると、かつて暗い夜道を陰間茶屋へ連れて行った時雨の所業は、あらゆる意味で愚かだった。
一人で飛び出していった桜太が、無事に弥空のもとへたどり着いたのは、奇跡に近かったのかもしれない。
恐ろしさに、時雨はぞくりと背筋を震わせる。
あの時もし桜太が、迷っていたら。どこへ連れ込まれていても、おかしくなかったのだから。
今日が日本晴れで良かった。
雲が出て薄暗いような日だったら、桜太はもっと迷っていたかもしれない。
町に帰ったら弥空にこのことを告げ、注意を促しておこう。そう考えていた時雨は、桜太がくぐった暖簾に気づいて、はっとする。
桜太はきっと、手近な暖簾をくぐっただけなのだろうけど。その店は、ちょっと桜太には早いようだ。
時雨は腕を組み、顎鬚を掻きながらどうしたものかと、苦笑を浮かべていた。
桜太のことだから、おかしなことにはならないだろうけど。助けに入ったら、自分の尾行がばれてしまうし。
時雨の視線の先にある建物は、湯屋(ゆや)。
湯屋は湯屋でも、湯女(ゆめ)を置いている湯女風呂。
湯女は男客の身の回りの世話をし、ついでに欲情の世話までする女たちだ。ここの二階もきっと、湯屋だか遊郭だかわからない状況になっていることだろう。
桜太はおそらく、湯屋なら地元の人々がいるから道を教えて貰い易いと考えて、暖簾をくぐったのだ。しかしここは、そういう場所ではない。
時雨相手なら、艶めいた表情で足に手をかけ、甘い声で色事をせがんだりもする桜太だけど。それが自分相手に限ったことだということを、時雨は自負している。
少年の、少年らしい興味も好奇心も、全ては時雨の方を向いているのだ。
桜太の媚態を思い、にやにや笑っている時雨が、それにしてもどうしたものか?と思案している、視線の先。
ほどなく出てきた桜太は、しどけなく小袖を身に纏った、おそらく湯女かと思われる色っぽい女に手を引かれ、顔を真っ赤にしていた。
「坊やにはまだ早いかねえ」
「ご、ごめんなさいっ」
「あははは!謝ることはないさ。知らなかったんだろう?もうちっと、大人になったらまたおいで。その時ゃあたしを呼んでおくれね」
「あの、あの…本当に。ごめんね」
やはり、時雨の想像は当たったようだ。可愛い姿に、目尻が下がる。
にこやかな湯女に手を引かれ、下を向いて真っ赤になっている桜太は、突然身に起きた出来事に、混乱してしまっているようだ。
ゆっくり二人の後を歩きながら、時雨は湯女に繋がれた桜太の、小さな手を見ていた。
「さて、益屋だっけね?あんたどこで道を聞いてきたんだい。反対じゃないか」
「反対、なの?」
「そうさ。…まあいいよ。女将さんもいいって言うし、連れてって上げるから」
まるでもっと幼い子供のように、湯女に手を引かれ歩いている桜太。
でもあの手は、時雨の前では違う表情になる。それこそ桜太の手を掴んでいる、湯女のように。
艶めかしく蠢いて、圭吾との約束なんか忘れて欲しいと囁き、時雨を誘惑するのだ。そっと時雨の着物の裾から忍び込んで、悪戯を仕掛けてくる桜太。
目の前の少年と同一人物だなんて、時雨にも信じられないくらいに。
相模屋での桜太との時間を思い出し、やに下がる時雨の前で、桜太はようやく少し落ち着いたのか、申し訳なさそうに湯女を見上げている。