ふっと笑みを浮かべた時雨が、女の杯に酒を注いでくれる。その伏目がちになった表情と、柔らかな笑みの形を作った口元に、思わず彼女は頬を赤らめた。
「で、でもまあ、かどわかしにしちゃ、いい男かね。…ねえ兄さん、時間があるならうちへ寄って行きなよ」
「湯女風呂?」
「ああ。…気に入らないかい?」
「いやいや、そんなことはないよ」
目の前の女は、湯女というには上品な顔立ちで、立ち居振る舞いも様になっている。しかし今の時雨に、そんな余裕はない。
「じゃあ…ね?いいだろう?」
しなを作って時雨の袂をゆるく引っ張った湯女の、白い手を。時雨はそっと押し戻した。
「悪いね」
「なんだい、随分とつれないじゃないか」
「ははは、お前さんのような別嬪に誘われて、悪い気はしないんだけどさ。泣かせるわけにゃいかないのが、いるんでねえ」
時雨はちらりと益屋を見つめる。
心を通い合わせるまで、桜太は時雨のどんな馬鹿な所業にも耐えていてくれたけど。だからこそもう、泣かせることは出来ないのだ。
時雨の視線に気づいた湯女は、驚きに目を丸くし、唖然とした表情になった。
「あんたまさか…」
「おっと。言葉にするんじゃないよ?」
「あ、あの…それは、わかったよ。でも…ええ?!本当に?!」
「まあね」
照れくさそうな表情で頬の辺りを掻いている時雨に向けられた、興味津々の瞳。
「あの子と、あんたが?」
「見えないかい?」
「見えないかいって、あんた。だって…あの子とあんたは、親子ほども違うじゃないか!」
「そうだねえ…でも、世間様じゃそう珍しくもないだろう?」
四十を越えて十四・五の嫁をもらうことなど、良くある話なのだから。
「いやだって!あの子の親は承知してるのかい?!あ、もしかして親なしだとか?」
「それがさあ…ちゃんといるんだよ、厳しいのが」
「それで!」
「なにかと条件をつけられてるよ」
やれやれと言いたげに肩を竦め、困ったような、それでいて楽しげな様子で頬を緩める時雨。優しい瞳が愛しげに、桜太のいる益屋を見守っている。
背の高い、逞しいけど細身の男。
長い髪をきゅうっと一纏めにしたその姿は、遊び慣れていることが容易に知れる。
少しくたびれたような表情に、甘い目元と形のいい唇。きっと髭をきれいにあたって、居住まいを正せば、相当な男前だろう。女が放っておかないような。
でも男は、愛した少年を心配して、こんなにも優しい視線を向けているのだ。
驚くばかりだった女は、そんな時雨の様子にため息をつき、杯を呷った。
「はん…面白くない」
「ん?」
「あの子だってさ、育てばきっといい男になるってのに。あんただって…まったく。女をなんだと思ってんだい」
「まあ、もっともな話だねえ」
「大事にしてやんなよ、いい子だもの」
「肝に銘じるよ」
時雨はゆっくりと腰を上げた。益屋の入り口に、桜太の姿。主人夫婦の見送りに、頭を下げている。
「つき合わせて悪かったね」
「構やしないさ」
時雨は懐から飲み代にと二朱銀を取り出し、縁台に置いた。それを見て、湯女は顔を上げる。
「多いよ、旦那」
「釣りはとっときな。あたしの可愛い子を案内してくれた礼だ」
「…じゃあまあ、遠慮なくいただくよ?」
「ああ」
見失うまいと、もう湯女の顔すら見ていない時雨。慌てて店を出て行く後姿に、女は呆れて笑っていた。
時雨の視線の先で、桜太は満足そうな笑みを浮かべ、持たされた何かの包みを大事に抱えたまま歩いている。
きっと、首尾は上々だったのだろう。
少年の顔は自信に輝いているように見えた。
――良かったね、桜太。
そんな桜太を見て、時雨の頬も緩みっぱなしだ。
ほんの少し、傾いてきたお日様。
しかし二人の顔が曇るまで、そう時間はかからなかった。
……もう、来た道を帰るだけだというのに。桜太はまた不思議そうに、道を失い辺りを見回している。
もはや、間違えようもない。
この子は確実に、方向音痴なのだ。
――頼むよ、桜太……
普段しっかりしているだけに、誰も気づかなかったのだろう。時雨は額に手を当てる。
こうして後ろから見ているとわかるのだが、桜太はどうにも、何かに気を取られると、すぐに角を曲がってしまうのだ。
そうやって次々に角を曲がり、自分の居場所を見失う。
はたっと立ち止まった桜太はしかし、しっかりした気性の分、蹲ってしまったりはしない。建設的にものを考え、打開策に動き出す。それだけが唯一、救いだと。そのときまで時雨も思っていたけど。
立ち止まった桜太が声をかけた人物を見て、時雨は眉を寄せた。
道端にたむろしていた男は、無遠慮な視線で舐めるように桜太の姿を見ていた。
「ごめんなさい。街道に出たいんですけど、どっちへ行けばいいですか?」