【8月特集】 P:09


 桜太のはきはきとした言葉に、ほんの少し躊躇うような表情になる。しかし男はゆっくり立ち上がると、小さな身体を見下ろしてにやりと笑った。
「迷ったのかい、坊主」
「うん」
「そうかいそうかい。ならおじさんが、連れてってやろうな」
 荷物を持った桜太の腕を掴み、男は街道と逆の方向に歩き出そうとしている。もう尾行がばれるとかなんとか、考えている暇はなかった。
 思えば今まで声をかけた船頭や湯女が、あまりに親切だったのだ。
 時雨が桜太を助けようと、物陰から飛び出したその時。
 裏道に引き擦り込もうとする男の意図に気づいた桜太は、迷いもなく荷物を離し、掴まれた腕を引き離そうと暴れだした。
「離してくださいっっ!」
 そばにいた時雨が、思わず立ち止まったほど大きな声。
「ぼくまだ仕事の途中なんだからっ!」
 声は男ではなく、近くの道を行く人々に向けられている。
「てめ…っ!」
 かあっと血を上らせた男は、なんとか桜太を連れ去ろうとするけど。確かに細くて小柄だが、いくら華奢であろうと子供というには身体の出来ている桜太に、力いっぱい暴れられては、思うようにもいかない。
「腕が痛いよっ!離してっ!」
「だ、黙れっ」
「痛いってば離してよっ!ぼくのこと、どこへ連れて行くの!!」
 抵抗をやめない桜太の大声に、人々が足を止め集まりだした。
 飛び出そうとしていた時雨は、思いとどまって経緯を見つめていたが、ふと笑みを浮かべ、桜太から姿を隠す。
 ……確かに、これでは。
 桜太を一方的に心配するなんて、子供だと思って侮っているのかと、拗ねられても仕方ない。
 桜太はちゃんと、自分で危険を切り抜けられるのだ。身を守る手段は、前もって考えていたのだろう。
 早々に荷物を諦め、躊躇して身を固くしたりもせずに、迷うことなく大人に助けを求めた桜太。しかし自分が勘違いしている可能性を残して、彼は助けてとも人攫いとも、叫ばなかった。
 ――あたしの桜太は、大した男だよ。
 くすくす笑って。時雨はそうっと桜太から離れ、裏道へ入っていく。

 大通り沿いでは桜太を諦めた男が、少年の身体を思いっきり突き飛ばして、人の少ない裏道へ逃げ出したところ。
 助けに入ってくれた人々に道を聞けば、もう桜太が迷うことはないだろう。野次馬の中に旅人がいたから、もしかすると街道まで一緒に行ってくれるかもしれない。
 時雨はもう、桜太を過度に心配するのをやめた。それよりも、やらなければならないことがある。
「くそ…っ!なんだってんだっ」
 可愛い少年を犯し損ねた男が、逃げた先に編み笠の人影。
「待ってたよ、兄さん」
「ああ?!誰だてめえ」
 顔を隠していた笠が上がると、そこには口元の笑みを裏切って、剣呑な瞳が男を睨んでいた。
「な、なんだよ」
「なんだよじゃないねえ…人の大事なもんに手ぇ出したんだ」
「はあっ?!」
「…ただで済むと、思うなよ」
 急に声が低くなったと思ったら、男の腹の辺りに鋭い痛みが走った。打ち崩れ、愕然と顔を上げる男の腕を掴んで。引きずり上げた時雨は、怒気満面で利き腕を振り上げていた。