【8月特集】 P:10


 
 
 
 
 
 悪漢を痛めつけてから町へ戻ってきた時雨だが、たどりついた相模屋の二階に、まだ桜太の姿はなかった。
 戻ったらここへ来るよう、知り合いを通して弥空に言伝を届けさせてあるから。きっと桜太はまだ、近江屋でつかいの報告でもしているのだろう。
 汗を流してのんびりと身体を伸ばし、時雨が待っていると、桜太は暮れ六つ(午後六時頃)を過ぎてから襖を開けた。
 ちょっと、困ったような嬉しいような表情。
 時雨は身体を起こし、襖を閉めたところに立ったままの桜太へ、手を差し伸べる。
「おかえり」
「時雨……」
「昨日は悪かったね。許してくれるかい」
 素直に謝る言葉を聞いて、桜太は表情を明るくすると、時雨の腕の中へ飛び込んできた。
「ただいま、時雨。ぼくこそごめんね?昨日は…帰っちゃったりして」
「寂しかったよ」
「うん、ぼくも。あんなに早く帰ったから、弥空さんにびっくりされちゃった」
 くすくす笑う、桜太の小さな唇。
 ちゅっと時雨が唇を触れさせると、桜太は驚いたように目をぱちぱちさせて、それから時雨の首筋に手を回し、もっと深く、とねだってくる。
 時雨は桜太の髪を撫で、頭を引き寄せた。薄く開いた唇を覆い、熱っぽく差し入れられる舌を、強く吸い上げる。
「んっ…ふ、あ…しぐれ」
「…ああ」
「や、もっと…ね」
 足りないと囁く言葉に、もう一度口付けて。今日一日、見守るだけで触れることの叶わなかった桜太の身体を、ゆるゆると撫で上げた。
「ぁ、ふ…んんっ…っ」
 甘さに酔って震える身体を、肩から背中、腰を撫でて腿まで。くちゅくちゅと濡れた音に溺れていた時雨は、少し熱を持った桜太の足に触れ、そっと唇を離した。
「や、ん…しぐれ…」
「桜太、疲れてるだろう?」
「え?」
「足。ぱんぱんになってるよ」
 ぎゅっとふくらはぎの辺りを掴まれて、桜太の身体がひくっと震えた。でも見上げてくるのは、名残惜しそうな視線。
 時雨は頬を緩めて桜太を見つめ、その額に口付ける。
「ねえ桜太…今日は帰らないだろう?」
「うん…」
「じゃあ時間はあるよ。ね?」
「でも、時雨」
「この足…あたしが揉んでやろうかと思うんだけど。嫌かい?」
 掴んでいた桜太の足を、やわやわと何度か撫でてやる。あれだけ迷えば足が痛くなって当然だ。
 温かい時雨の提案に、桜太はほんの少し頬を赤くした。
「時雨が?」
「ああ。このままじゃお前さん、明日歩くのが辛いよ。…嫌かい?」
 首をかしげ、もう一度尋ねる時雨の胸に、桜太は頭を寄せた。
「…嫌じゃない」
「なら少し待ってな。湯をもらってくるよ」
 とんとん、と寄せられた頭を軽く叩いた時雨は、桜太を抱き上げ布団の上に寝かせる。端を折って足を高くしてやりながら、ふと思い立って顔を上げた。
「桜太」
「なに?」
「今日はご苦労様」
 優しく笑う時雨の顔を見つめて、ほっとした様子の桜太は、どこか誇らしげに顔を輝かせ「うん」と大きく頷いた。
 
 
 
 小さな桶に湯をもらってきた時雨は、手拭いを浸して固く絞ると、桜太の足に置いてやる。その上から、痛くない程度の力でゆっくりと按摩を始めた。
 その間、うつ伏せている桜太はずっと、楽しげな様子で今日の顛末を話していた。
 道に迷ったこと。
 最初に声をかけた船頭の話。
 それでもまだ迷ってしまい、湯屋の人に話を聞こうと思ったら、そこはただの湯屋ではなくて。驚いて飛び出そうとした桜太を、きれいな湯女が捕まえ道案内をかって出てくれて、少し照れくさかったけど、嬉しかったこと。
 どの話も、後ろを歩いていた時雨には、目新しい内容ではなかったけど。もちろん興味深く、頷きながら聞いてやる。
 優しい相槌で先を促してくれる時雨に、上機嫌の桜太は次から次へと、今日の出来事を話していた。
「あんなお湯屋さんもあるんだね」
「知らなかったかい?湯女風呂っていうんだ。この町にもあるよ」
「時雨は行ったことがあるの?」
「あ〜〜…昔、ね」
 いいにくそうな時雨の声に、楽しげな返事が返ってくる。
「ふふ、いいのに」
「ははは…」
「ぼくが入っていったら、みんなびっくりしてた」
「そりゃそうさ」
「でも女将さんがいい人でね、休んでたお姉さんに、案内してやりなって言ってくれたんだよ」
「良かったね」
「そうしたらお姉さん、益屋さんまで送ってくれたんだ」
「わざわざ?」
「そう。ぼく道教えてくれたら一人で行けるよって言ったんだけど…子供が遠慮するなって」
「また迷うかと、思われたんじゃないのかい?」
「う…。そうなんだけど」
 ちょっと不満そうな桜太に、時雨は笑ってしまう。あの時、真っ赤になって手を引かれていた桜太を思い出して。