「しかしまあ、あんな狭い町でよく迷ったもんだねえ、お前さんは」
「だって…初めて行ったんだもん」
「そうそう、益屋のご主人は、お元気だったかい?」
「うん。時雨のことも元気かって仰ってたよ。お会いしたことがあるの?」
「一度か二度ね。深夕が可愛がってもらってたんだってさ」
「そうなんだ…とっても優しいお人なんだね。お届けした簪、奥様がとても喜んでくださって、何度も何度もありがとうって仰るの。主人に伝えますって言ったら、届けてくれたあなたに言ってるのよって」
「良かったじゃないか」
「うん。凄く嬉しかった」
本当に嬉しそうな声。
ついつい、自分のことよりも他人のことばかり気にして、自分の痛みを後回しにしてしまう桜太だけど。彼のそんな性格は、こうして誰かのもとで仕事をするのに、向いているのかもしれない。
人に喜んでもらうことを、我が身の喜びに変えられるなら、桜太は商いに向いているのだろう。
桜太のほっそりした足から手を離した時雨は、あてていた手拭いを外して桶にかけ、ぐいっとそれを遠のける。そうして、桜太の隣にごろりと寝転がると、うつ伏せていた桜太の身体をひっくり返してやった。
「時雨?…おしまい?」
「あ〜…ねえ?」
「うん?」
「本当は、もうちょっと解しておいた方がいいんだろうけどさ」
そうっと華奢な身体を引き寄せる。
桜太の頭の下に腕を差し入れて、身体を添わせると、桜太の裾を割って彼の足の間に自分の足を入れた。
「あ…」
「桜太の嬉しそうな声聞いてたら、さ。顔が見たくなって」
「時雨…」
「そう思ったら、もっと違うところにも触りたくなったんだけど」
着物の裾から、ゆるゆると桜太の足を撫でていく。ひくんと身体を震わせた桜太は、それでも躊躇いがちに自分の足を時雨の足に絡めた。小さな手が、時雨の胸元へ忍び込んでくる。
「する、の?」
「…最後までは、出来ないけどね」
「またそんなこと言って…」
ぷうっと頬を膨らませ、拗ねた顔になった桜太は、時雨の浅く灼けた胸に唇を押し付けた。
「意地悪…」
「そう言うんじゃないよ。圭さんとの約束なんだから、仕方ないでしょうが」
「ぼく、約束するなんて言ってないもん」
桜太の舌が、ちろちろと時雨を誘っている。
「困らせるようなこと、言うんじゃないって。…今日は何事もなく、仕事も果たせて、いいこと尽くめだったんだろう?…だから、さ。ね?」
あまり我がまま言わずに、と。囁く時雨の顔を見上げた桜太は、ちょっと躊躇うような表情を見せた。
「桜太?」
「…うん。あの…あのね?」
「どうした」
言おうかどうしようか、迷っている様子だ。時雨はまだ何かあったろうかと考えながら、桜太の額に口付ける。
今も、近江屋でも、いい事しか報告しなかったけど。桜太はじっと時雨を見つめ、この人にだけはちゃんと、全部話さなければと思って。きゅっと唇を引き結び、覚悟を決めて息を吐いた。
「桜太?」
「…あった、の」
「何が」
「怖いことも…ちょっとだけ、あった」
「そう…なのかい?」
何のことだろうと、時雨は記憶をたどってみる。幾度も道に迷いはしたが、概ね桜太は上手くやっていたと思うが……。
「あのね…益屋を出て、もう帰るだけだったんだけど。ぼくまた迷っちゃって…それで、のんびりしてる人がいたから、道を聞こうと思ったんだ」
「ああ…」
そのことか、と。時雨も頷いた。
話せば時雨に何か言われるのを承知で、それでも話しておこうとする桜太が……そうして、二人の間に少しでも秘密をなくそうとする桜太のいじらしさが、とても愛しくて。
髪を撫でてやる時雨はついつい、気持ちを緩めてしまう。
「そうしたらその人に、腕を掴まれて連れて行かれそうになって…」
悔しそうな声。時雨は笑って、ぽん、と桜太の頬を優しく叩いた。
「気にすることはないさ」
「でも」
「上手く切り抜けてたじゃないか。十分だよ」
……という。自分の言葉を、時雨はよく考えていない。
「……え?」
「?……あっ」
やらかしてしまったことに気づいたのは、桜太の驚いた顔を見てから。思わずしまったと、動揺した時雨を桜太が見逃すはずがなかった。
時雨の腕の中、しどけなく甘えていた桜太が、がばっと起き上がる。
「なにそれっ!」
「い、いやあの」
「なんで時雨が、そんなことまで知ってるの!?」
「……ごめん」
下手な言い訳を諦め、しゅんとした表情で謝罪する時雨だが。いったん頭に血が上ってしまった桜太には聞いてもらえない。
ぎっと時雨を睨みつける、その表情といったら。血も繋がっていないのに、圭吾そっくりだ。
「まさか時雨、ついて来てたの?!」
「う…まあその…そうなんだよ」