【明日への約束@】 P:03


 木勺でゆっくり鍋の中をかき回し、蓋をする。圭吾から三人分の夕餉を頼まれるようになったのは、もう随分前。

 山の奥にある岩牢に、誰かを匿っていると聞かされていた。その人は、人々と離れていなければならなのだとか。
 絶対に秘密だといわれたので、桜太はちゃんと約束を守っている。幼馴染の平二(へいじ)にも、手習いの先生にも、誰にも話していない。
 きっとこの秘密が、圭吾の苦しみの鍵を握っている。そう気づいているのに、桜太はやっぱり聞けないでいた。

 十の子供に救いを求めるほど、圭吾は軟弱な男ではない。いくら心配しても、出来ることはないのだということが、余計に桜太を切なくさせる。
 自分の小さな手をじっと見つめ、それをきゅうっと握った。
 何も出来ない。圭吾を救うことはもちろん、支えることさえ出来ない。
 圭吾は桜太のことをまるごと抱き上げ大事にして、導いてくれるのに。桜太には、返せるものが何もない。
 そればかりを毎日考えてしまう。

 桜太は何度か頭を振った。
 桜太が元気で笑っていることが一番幸せなのだと、圭吾は言ってくれる。なら今出来るのは、元気にしていることだけだと自分に言い聞かせる。
 だから桜太は母屋を飛び出し、出来るだけ元気に走って、離れへ向かったのだ。

 桜太は圭吾の仕事をよく知らないが、客のある時はけして離れに近づいてはいけないと言われている。
 圭吾は言葉少なな男だが、けじめなければならないことはちゃんと言葉にして、桜太に教え誓わせていた。

 人様に迷惑をかけてはいけない。約束を違えてはいけない。決めたことはやり遂げなければならない。自分が辛くなるような嘘をついてはいけない。
 困ったときは相談すること。物は丁寧に扱うこと。仕事の邪魔はしないこと。大人の話に口を挟まないこと。

 客のある時には離れに近づかない、というのも、圭吾と桜太がしている、たくさんの約束のうちのひとつ。
 圭吾はその理由を「仕事に使う刃物があって、危ないから」と話している。

 今日は朝から何も聞いていないので、桜太はまっすぐ離れに向かい、躊躇いなく戸に手をかけた。客のいない、圭吾のいる時なら、離れに入ることも禁じられてはいないのだ。
「兄ちゃん!ご飯できたよ〜っ」
 自分の不安を払拭しようとでも言うように、元気な声をかけてがらりと戸を開いた桜太は、思いもしなかった中の光景にはっとして固まってしまう。
 まさか圭吾以外の人間がいるとは思っていなかった、離れの中。見たこともない男が、桜太を振り返っていた。

 顎を覆う無精髭は男を老けて見せるが、目元が若々しく、圭吾とそう年が離れているわけでもないと知れる。
 こんな風に無精髭など生やしていれば、大概は小汚くなるものだが。男の姿は斜に構え、粋なようにも見えて、遊び人の風情が嫌味なく目に映る。
 緩くうねった長い髪を首の後ろで括り、離れを上がったばかりのところへ胡坐をかいていた男は、驚いた顔もせずに桜太を見ていた。
 きっと、いま圭吾が手にしている着物を持ってきたのだろう。桜太が見たことのない着物。
 男の方は淡い色の友禅を肩にかけ、対照的な濃い色の袷を身に付けて、袖の中へ腕を組んでいた。

 優しそうな人、というのが桜太の最初の感想。しかし今は男のことより、早く謝罪を、と。口を開きかけた桜太より早く、圭吾が声を上げた。
「客のいるときは入ってくんじゃねえって言ってんだろっ!」
 今日、客があることなんか聞いてもいないし、大体、飯が出来たら呼びに来いと言ったのは圭吾だ。
 怒鳴る言葉は理不尽極まりないのに、怯えて動けなくなっている桜太は、そんな言い訳など考えてもいなかった。
 客の来訪を事前に聞いていたことかどうかなど、桜太には大した問題じゃない。
 客があったら離れに入ってはいけないと、約束したのに。そういう約束をしたのはわかっていたはずなのに、自分は確認もせず戸を開けた。それだけでもう、桜太を立ち竦ませるには十分だ。
 ごめんなさい、と。
 言いたい言葉が喉の奥に引っ掛かって出てこない。こんな風に大きな声で圭吾に怒られることなど、めったにないから。本当に、ただびっくりして、桜太は声を出せないでいた。

 どうすることも出来ず、思わずぎゅうっと目を瞑った桜太の耳に聞こえたのは、圭吾よりずっと深い、穏やかな男の声。
「…何そんな怒鳴ってんだい、先生」