木勺でゆっくり鍋の中をかき回し、蓋をする。圭吾から三人分の夕餉を頼まれるようになったのは、もう随分前。
山の奥にある岩牢に、誰かを匿っていると聞かされていた。その人は、人々と離れていなければならなのだとか。
絶対に秘密だといわれたので、桜太はちゃんと約束を守っている。幼馴染の平二(へいじ)にも、手習いの先生にも、誰にも話していない。
きっとこの秘密が、圭吾の苦しみの鍵を握っている。そう気づいているのに、桜太はやっぱり聞けないでいた。
十の子供に救いを求めるほど、圭吾は軟弱な男ではない。いくら心配しても、出来ることはないのだということが、余計に桜太を切なくさせる。
自分の小さな手をじっと見つめ、それをきゅうっと握った。
何も出来ない。圭吾を救うことはもちろん、支えることさえ出来ない。
圭吾は桜太のことをまるごと抱き上げ大事にして、導いてくれるのに。桜太には、返せるものが何もない。
そればかりを毎日考えてしまう。
桜太は何度か頭を振った。
桜太が元気で笑っていることが一番幸せなのだと、圭吾は言ってくれる。なら今出来るのは、元気にしていることだけだと自分に言い聞かせる。
だから桜太は母屋を飛び出し、出来るだけ元気に走って、離れへ向かったのだ。
桜太は圭吾の仕事をよく知らないが、客のある時はけして離れに近づいてはいけないと言われている。
圭吾は言葉少なな男だが、けじめなければならないことはちゃんと言葉にして、桜太に教え誓わせていた。
人様に迷惑をかけてはいけない。約束を違えてはいけない。決めたことはやり遂げなければならない。自分が辛くなるような嘘をついてはいけない。
困ったときは相談すること。物は丁寧に扱うこと。仕事の邪魔はしないこと。大人の話に口を挟まないこと。
客のある時には離れに近づかない、というのも、圭吾と桜太がしている、たくさんの約束のうちのひとつ。
圭吾はその理由を「仕事に使う刃物があって、危ないから」と話している。
今日は朝から何も聞いていないので、桜太はまっすぐ離れに向かい、躊躇いなく戸に手をかけた。客のいない、圭吾のいる時なら、離れに入ることも禁じられてはいないのだ。
「兄ちゃん!ご飯できたよ〜っ」
自分の不安を払拭しようとでも言うように、元気な声をかけてがらりと戸を開いた桜太は、思いもしなかった中の光景にはっとして固まってしまう。
まさか圭吾以外の人間がいるとは思っていなかった、離れの中。見たこともない男が、桜太を振り返っていた。
顎を覆う無精髭は男を老けて見せるが、目元が若々しく、圭吾とそう年が離れているわけでもないと知れる。
こんな風に無精髭など生やしていれば、大概は小汚くなるものだが。男の姿は斜に構え、粋なようにも見えて、遊び人の風情が嫌味なく目に映る。
緩くうねった長い髪を首の後ろで括り、離れを上がったばかりのところへ胡坐をかいていた男は、驚いた顔もせずに桜太を見ていた。
きっと、いま圭吾が手にしている着物を持ってきたのだろう。桜太が見たことのない着物。
男の方は淡い色の友禅を肩にかけ、対照的な濃い色の袷を身に付けて、袖の中へ腕を組んでいた。
優しそうな人、というのが桜太の最初の感想。しかし今は男のことより、早く謝罪を、と。口を開きかけた桜太より早く、圭吾が声を上げた。
「客のいるときは入ってくんじゃねえって言ってんだろっ!」
今日、客があることなんか聞いてもいないし、大体、飯が出来たら呼びに来いと言ったのは圭吾だ。
怒鳴る言葉は理不尽極まりないのに、怯えて動けなくなっている桜太は、そんな言い訳など考えてもいなかった。
客の来訪を事前に聞いていたことかどうかなど、桜太には大した問題じゃない。
客があったら離れに入ってはいけないと、約束したのに。そういう約束をしたのはわかっていたはずなのに、自分は確認もせず戸を開けた。それだけでもう、桜太を立ち竦ませるには十分だ。
ごめんなさい、と。
言いたい言葉が喉の奥に引っ掛かって出てこない。こんな風に大きな声で圭吾に怒られることなど、めったにないから。本当に、ただびっくりして、桜太は声を出せないでいた。
どうすることも出来ず、思わずぎゅうっと目を瞑った桜太の耳に聞こえたのは、圭吾よりずっと深い、穏やかな男の声。
「…何そんな怒鳴ってんだい、先生」