【明日への約束@】 P:04


 男はゆっくり立ち上がって、桜太と圭吾の間を遮った。
 彼は圭吾が後ろめたさと苛立ちで、心を荒らせていることを知っている。
「時雨(しぐれ)、いい加減その呼び方をやめろ」
 圭吾は男を時雨と呼んだ。呼ばれた時雨は肩を竦め、呆れた顔で圭吾を眺める。
 桜太から目を逸らし、自分の八つ当たりでしかない態度を、深く後悔している様子の圭吾。

 彼は今、傲慢な独占欲に駆られて、とても美しい人を監禁している。花の風情を思わせる、美しい男。
 圭吾が彼を捕まえたとき、時雨もたまたまその場に居合わせていた。
 普段の圭吾はそんな愚を犯す男ではないのだが、どうにも何か、時雨も知らない深い事情を抱え、ほっそりと美しい人を攫ったようなのだ。
 しかし時雨は生来の、興がのれば自ら毒でも飲みかねない気性が手伝って、今まで一度も圭吾を諌めようとはしなかった。
 後ろめたさと、それでも押さえきれない美しい人への欲望に、自らを責め日に日に苛立ちを強くしている圭吾。こんな圭吾を見たことのない時雨は、彼の激しい感情をいっそ好ましく観察してきたのだが。

 しかし、このままでは。
 時雨はゆっくり桜太に近づき、小さな頭にぽんと手を置いて、圭吾を振り返った。
「子供に八つ当たるんじゃないよ、圭さん。大事なもんまで傷つけるような所業なら、やめちまいな。もっと後悔することになるよ」
 囚われ人だけならまだしも、圭吾が幼い子供まで巻き込もうと言うなら話は別だ。放っておけば、圭吾自身が取り返しのつかないほど悔いることにしかならない。
「…てめえには、関係ねえ」
 暗い声で、圭吾が撥ね付けた。
「圭さん」
「とっとと失せろ。目障りだ」
 随分なことを言うくせに、圭吾は時雨が調達してきた着物を手にして、項垂れている。時雨がわざわざ言わなくても、すでに圭吾は己の言葉を後悔していた。
 ため息を吐いて「しょうもないこと、しなさんな」と呟き、時雨は自分を見上げる少年に微笑みかける。
 戸惑いを隠せない様子で見上げてくる大きな瞳は、潤んで泣いているようにさえ思えた。

 桜太は、じっと時雨を見上げていた。
 きっと圭吾と同じくらいの背丈。柔らかそうな長い髪や口元の髭に触れてみたいと思って、そんな風に思う自分に戸惑いながら、ぼうっと男を見つめる。
 自分を見下ろし、ゆっくり微笑を浮かべた人。
 圭吾とも、誰とも違う感じの慈愛が込められた瞳。深い色をした目が、桜太を映している。
 優しい笑みがなぜか寂しげに思えて、桜太は息を詰めた。桜太の緊張をどう受け取ったのか、時雨は頭に乗せた手でゆっくり桜太の髪を撫でてくれる。
「許してやんな。圭さんも、びっくりしてんだ」
「え……」
 慌てて圭吾に目をやって。苦しげな視線で手元を見つめている圭吾に、言うべき言葉が見つからず、桜太はもう一度、縋るように視線を上げた。
 時雨は大きく包み込むような笑みを浮かべたまま、何も言わず桜太の髪を撫でていてくれる。大丈夫、と囁く声が聞こえたように思うのは、勘違いだろうか?
 指の長い、大きな手。
 気持ち良くてわずかに顎を上げた桜太がそっと目を閉じると、彼は緩やかに桜太の頬を撫でてくれた。染料や仕事で荒れた圭吾の指先とは違う、柔らかい感触。少し冷たいくらいの大人の手。
 しばらくそうして桜太の頬を撫でていてくれた時雨は、思い出したようにぽん、と小さな肩を叩いた。
「名前は?」
「…桜太」
「桜太、もうしばらく待ってな?圭さんはちゃんとわかってるから」
「…………」
「なあんも悪い様にゃ、ならないよ。でも、もうしばらく待ってやってくれな」
 それはやっぱり、桜太に出来ることなどないと言われてしまったようで、切なかったけど。時雨が何度か励ますように肩を叩いてくれたから、桜太は少しだけ元気を取り戻して頷いた。
 ほわりと柔らかい笑みを浮かべた少年に、優しい目で時雨も笑う。
「じゃあね、桜太」
 背の高い後姿が、振り返ることもなく離れを出て行く。
 遠くなっていく背中を見つめ、桜太は声にならないほど大きな何かを飲み込んだ。
 ……それが何かは、まだわからなかったけど。





 桜太にとって、とても印象的だった時雨との出会い。しかしそれは、桜太の中で明確な形をとることなく、一年近い日々が過ぎてしまった。