【明日への約束@】 P:05


 その時のことを深く考えるには、あまりに慌しい日々だったのだ。

 桜太が暗い洞窟の中で会った美しい人は今、圭吾のそばで笑っている。
 朔(さく)という名の、その人。
 狭い洞窟の中で桜太が出会ったとき、何か辛そうに、悲しい笑みしか浮かべなかった彼は、圭吾の怪我をきっかけにこの家へ来て、一緒に住むようになっていた。

 朔が幼い頃から圭吾の求め続けていた、想い人だということを、桜太は知らない。もちろん、圭吾が彼を長いこと岩牢に閉じ込め、思うさま抱いていたのだということも。
 圭吾の熱い想いを受け入れた朔は、自身が求め続けた運命を圭吾に見つけ、ようやく光の中で明るい表情を見せるようになった。
 朔はいま、ずっとそうしていたかのように自然な表情で、まだ思うように動けない圭吾の傍らに寄り添っている。

 圭吾が怪我をしたとき、取り乱した桜太は朔に助けを求めた。
 そのとき少年が、ずっとこのまま居て欲しいと願った通り、彼はここにいてくれる。二人の睦まじい姿は、桜太のことも幸せな気持ちにさせていた。
 なんだい圭さん、こんないい人がいたのかい。そんな風に村人たちにからかわれ、ふわっと頬を染める朔は本当にきれいだ。桜太の視線の先で寄り添う二人は、なんだかいっそ見ていられないくらい似合っている。
 その二人から「桜太」と名を呼ばれ、手を差し伸べてもらえる今を、桜太は心から喜んでいた。

 優しくて綺麗な朔は、とても博識な人でもあって。手習いの先生でも教えてくれないような、たくさんのことを桜太に教えてくれる。
 とくに彼が煎じる薬は良く効いて、医者のいない村では本当に重宝された。大仰なほどありがたがる村の人たちの前で、恥ずかしそうに照れる朔。薬草を取りに山へ入るときは、桜太も付いて行って小さな手で出来る限りの手伝いをする。一緒にいて色んなことを教えてもらえることが、嬉しくてしょうがないのだ。
 わずかな時間のうちに、圭吾と朔と、三人で暮らす毎日はかけがえのないものになっていた。気の荒い圭吾と、気の強い朔は、言い争うことも毎日のようだけど。それすらもなんだか楽しそうな二人に、桜太は明るい笑顔を添えている。

「邪魔するよ〜」
 時雨が離れではなく、母屋の戸を開けたのは、朔が共に住むようになってから、二十日と少しが過ぎた頃。
 がらりと開いた戸から姿を現した時雨に、朔は笑みを浮かべ、圭吾は眉を寄せた。
「時雨さん」
 朔から名を呼ばれた時雨が、ひょいと片眉を上げる。
「あれ?名を聞かれたことはなかったよねえ。先生に聞いたのかい?」
「はい」
 うっとりするほどきれいに微笑んだ朔は、傍の圭吾を見つめた。しかし圭吾はじとりと、不機嫌な顔で時雨を見ている。
「いい加減、その先生っての止めやがれ。虫唾が走る」
 圭吾のことを客たちが「先生」と呼ぶのはいつものことだが、客になる前からの馴染みだった時雨に先生などと呼ばれるのは、圭吾としても非常に気持ち悪い。
「っと、そうだった」
 時雨がにやりと笑うのは、嫌がらせとわかって呼んだから。「上がれよ」と不機嫌な圭吾に中へ促され、時雨はいつもと同じ、飄々とした様子で土間から部屋へ上がった。

「何しに来たんだ、時雨」
 上がれと言ったのは自分だというのに、圭吾の機嫌は治まった様子がない。
「随分な態度じゃないの、しつこいねえ。ほんとにこんな男がいいのかい?朔」
「うるせえ。用件は何だ」
「いや、あんたが怪我したって聞いたからさ。とうとう朔に刺されたのかと思ったんだけどね?」
 違うようだ、と。ざらざら髭を撫でながら、笑っている時雨。
 朔と圭吾が出会う前、時雨は何度か朔と肌を重ねたことがあった。もちろん肌を重ねたと言っても、二人は互いにその場の熱を処理していただけの、いわゆる身体だけの関係だった。それは圭吾も、知っているはずなのだけど。
 理解できるのと、納得できるのとでは、大きな違いがある。
 昔のことは仕方ないとわかっているくせに、こうして朔と時雨が顔を合わせるのは、圭吾にとって面白くない。
「刺されてねえことがわかったんなら、帰えんな」
「帰えんなって、お前さんは本当に。心の狭めえ男は女に嫌われるよ」
「構やしねえよ、ありがてえくらいだ。女に好かれたいと思ったことはねえな」
 何をせずとも女が寄ってくる、圭吾らしい台詞だ。時雨が肩を竦める。
「言うじゃないか。…しかし圭さん、怪我してんのは本当だったんだねえ」