【明日への約束@】 P:07


 時雨は悪戯っぽい笑みを浮かべ、朔を見つめる。
「どうだい、朔。もう一度見たいと思わないかい?お前さん、あの時も触りたいって言ってたじゃないか」
 言葉の裏側に気づかない朔は、ぱあっと明るい顔をして「是非!」と手を握り合わせるけど。朔らしい天然な発言に、圭吾は強く朔の腕を引っ張って、細い身体を引き寄せた。
「なに嬉しがってんだ、あんたは!」
「え?だって」
「だってじゃねえよ!」
 圭吾の苛立ちを理解できない朔は、むっとした顔になって身をよじる。
「またそうやって!どうしてあなたはいつも、一方的に怒鳴るんですか?!」
「怒鳴るだろう普通は!あんたもう俺のもんになったって、自覚してねえのかよ?!」
「してますよ!してますけど、それとこれと何の関係があるんです!」
 何の関係もなにも。
「あるだろうが!時雨の背中に触れるようなこと、する気なのか?!許さねえぞ!」
「な…!するわけないでしょう?!あなたこそ何言ってるんですっ!」
 ぎゃあぎゃあと、朔も圭吾も煩いことこの上ない。
 自分のせいで始まった、痴話喧嘩としか言いようのないものに、時雨は呆れて天井を見上げる。他人の痴話喧嘩ほど聞いていられぬものはない。
 焚きつけたくせに早々と飽きてしまった時雨は、退屈そうな顔で周囲に目を遣って、ようやく部屋の隅に、黙って座っている桜太を見つけた。

 桜太は楽しげに、にこにこと大人たちの会話に耳を傾けていたけど。今までそこにいることすら、時雨に気づかせなかったのだ。はしゃぎたい盛りの子供だというのに、まるで身を潜めるかのように静かな様子で、大人しくしている。
 じっと桜太を見つめ、笑みを消した時雨は少しばかり苦い顔になった。楽しそうに見えるけど、そこには僅かばかりの不自然さが伺える。
 桜太の方も、自分を見ている時雨に気づいた。なんだろうと首をかしげる桜太と目が合い、時雨はにこりと微笑んでやる。
 煙草盆を手に、二人のそばを少し離れて座った時雨は、煙管の灰を落としながらちょいちょい、と小さく手招きした。その間も、朔と圭吾の下らないとしか言いようのない争いは続いていて、時雨の所作はまるで内緒話でも持ちかける様だ。
 這うように時雨の元へやってきた桜太は、なんだろうと首をかしげたまま時雨を見上げている。
「桜太、だったね?」
「うん。…おじさんは時雨さんっていうの?」
 あどけない表情で見上げられた時雨は、芝居がかった様子で大袈裟によろめいた。
「おじさんは辛いなあ…」
 五つ六つ圭吾より年上の時雨だが、これでも気持ちは圭吾と変わらぬつもりなのだ。
 圭吾は兄ちゃんで、自分はおじさんなのかい、と。拗ねてみせる時雨に、桜太は慌てて謝罪の言葉を口にする。
「あ、あの。ごめんなさい」
 とても素直な反応を返す桜太に、時雨は苦笑いを浮かべた。
 桜太と同じくらいの年の子供を知っているが、あの子だったら「充分おじさんでしょう?」なんて眉を顰めるところだろう。
「まあ、おじさんなんだけどねえ」
「ち、違うのあの…ごめんなさい」
「あたしゃ桜太って呼んでんだからさ。桜太も時雨って呼べばいいんじゃないの?」
「でも…いいのかな」
 桜太は躊躇いがちに呟いて、ちらりと圭吾の方を伺い見る。圭吾からきつく年長者への敬意を諭されて、育っているのだ。しかし当の圭吾は、朔と言い争っている真っ最中。
「構やしないよ。圭さんがなんか言ったら、時雨がそう呼べって言ったんだって。言ってやりゃあいい」
「うん…じゃあ、えっと。時雨?」
 上目遣いに時雨を見上げ、大きな瞳は嬉しそうな笑みに、柔らかい曲線を描く。
 圭吾が子供を育てている話は、前から聞いていた時雨だが、実際に桜太と会ったのは二度目だ。極道とも対等に渡り合う圭吾が、こんな可愛らしい子を養っているとは思わなかった。
 興味を引かれ、時雨は圭吾と朔に目を遣った。とうとう二人は、どっちの方が惚れてるの、どっちの方が想いが深いのと、蚊帳の外では聞いていられないような話を始めている。
「…桜太、村の外れまで送ってくれないかい?」
 痴話喧嘩の仲直りといえば、そういくつも方法があるわけじゃない。どの方法だとしても、この子に聞かせるような内容ではないはずだ。
 いらぬ気遣いを見せてここから連れ出そうとする時雨に、桜太は明るく笑って「いいよ」と了承した。

 村の外れといっても、こんな小さな村ではそう距離があるわけもなく。稼げる時間だって、限られている。
 どんなもんだろうねえ、などと下世話な心配をしながらゆっくり歩く時雨の隣。黙ってついてくる桜太は、こちらも何かを思案している様子。