【明日への約束@】 P:08


 時雨が見下ろす桜太の髪は、前に会った時も細くてまっすぐで、さわり心地が良かった。思い出しながら時雨が小さな頭に手を置くと、桜太は弾かれたように時雨を見上げ、にこりと笑う。幼い笑顔に、年には似合わぬ取り繕うような気配を感じて、時雨は困惑げに囁いた。
「朔が来てから何か…困ってることでもあるのかい?」
 唐突な問いかけがわからなかったのだろう。桜太は首を傾げた。
「困ってること?ぼくが?」
「そう、桜太が。…そうねえ…例えばそう、兄ちゃんに構ってもらえなくなって、寂しいとか。ね?」
 どう?と。優しい笑みを浮かべ、時雨が桜太に尋ねる。
 桜太と圭吾はずっと二人で暮らしてきたのだと聞いていた。
 長く想い続けていたらしい朔と共に暮らせるようになって、圭吾が浮かれるのは無理もないと思う。しかしそんな圭吾と朔が、さっきのような痴話喧嘩を、毎日のようにたった三人の家の中で繰り返しているのだとしたら……桜太は居場所がなく、辛い思いをしているんじゃないかと。そう思ったのだ。
 しかし聞かれた桜太は、首を振った。
「寂しいなんて、そんなことないよ。朔も兄ちゃんも、とっても優しいし」
「へえ?」
「それに兄ちゃんと朔と、三人で一緒にいたいって。朔に帰らないでって言ったの、ぼくだから」
 にこっと笑って、桜太はそう言うが。すぐに下を向いてしまい、ふと黙って「でも…」と呟いた。
 幼い顔に落ちた影に気づき、時雨は足を止める。
「どうした?言ってごらん」
「うん……。あのね、こうして、ね?」
 桜太は一緒に立ち止まり、すぐそばにあった時雨の大きな手を握った。
「朔はぼくと、手を繋いでくれるんだけど。でも朔、兄ちゃんと手を繋ぐとき、震えてるから…」
 朔は何も言わないし、また圭吾が気づく様子もないので、桜太の心配な気持ちは、大きくなるばかり。
「それ、見るとね。…朔がいなくなるんじゃないかって…どっか、遠いところに行っちゃったらどうしようって。怖くなる…」
 朔はきっと心の中にある痛いところを、晒したりは出来ない人だと。そう桜太は考える。だから何かに耐えられなくなったら、ふいっと姿を消してしまうんじゃないかという気がしていた。

 幼い子供の可愛い不安。怖くて震えることしか知らない、真っ白な心。
 俯いていた桜太は、困り果て頼りきった視線で時雨を見上げた。
 涙腺が弱いのか、もとからそういう目をしているのか。前に会ったときと同じで、やっぱり桜太の瞳は涙を湛えたような、潤んだいろをしている。
 あどけない柔らかな曲線に添えられた、無垢な艶めかしさ。さらりとした前髪に大きな瞳が翳っていて、少年を何倍も大人びて見せる。
 ふっくらした唇が薄く開き「時雨?」と掠れたような声で時雨を呼んだ。
 悪戯心を刺激された時雨は少し笑って、繋いだ手を強く握り、桜太を抱き上げて道から外れる。

 人目から隠れ、木が生い茂る草陰に連れ込まれても、桜太はきょとんとしていた。どうしていいかわからず、動けないでいる桜太の華奢な身体を抱き込んで、時雨は唐突にその柔らかい唇を塞いでしまう。
 驚きに、今度こそ本当に固まってしまった桜太の唇を開放して。時雨は優しく笑いかけた。
「ほら、震えてる」
 ね?と。わずかに震えている桜太の手を見せてやり、もう一度握った時雨は、舌を伸ばして淡い色の小さな唇を舐める。
 生々しい感触に、細い肩がびくっと震えた。
「嫌かい?もう、したくない?」
 ……そんな。いきなり口付けて、嫌かと聞かれても。
 基本的に心が柔軟で、なんでも受け入れてしまえる桜太に、拒絶の言葉など浮かぶはずもない。
 桜太は混乱しながらも首を振った。首を振りながらしかし、もとより潤んだ瞳に涙を浮かべ、時雨の真意を問うようにじっと見つめている。
 可愛い仕草に時雨はますます笑みを深くして、桜太の震える手にそっと口付けた。
「手が震えるのは、こうして。可愛がって欲しくて、胸がどきどきするからだよ。朔も…君もね」
 桜太の頬が、かあっと赤く染まっていく。
 どう反応したらいいのかわからずに、下を向こうとしていた桜太を、時雨はぎゅうっと抱きしめた。
 圭吾も朔も、こんな風に桜太を抱きしめてくれる。褒めてくれる時や、安心を与えてくれる時。そんな時、桜太の心にはほわりと柔らかい何かが拡がって、あったかくなっていくのだが。
 今は、全然違った。
 柔らかな頬にざらりとした感触が当たって、少年は背筋を震わせる。時雨の髭がざらざらと、桜太の頬から首筋までを撫でたりするから。朔が圭吾の傍らで震えるのと同じように、桜太も自分の手が震えるのを抑えられない。
 ……同じ、なのだろうか?朔と。
「可愛がって、欲しいの?」
 怯えたような声で尋ねる桜太の、不安げな顔を時雨が覗き込んだ。