【明日への約束A】 P:03


 笑う瞳にはなんだか影が落ちているような気がして、それが何なのかが気になって、時雨を思い出すたびに桜太を落ち着かなくさせる。

 朔に尋ねてみようかと、桜太は顔を上げた。今なら圭吾もいない。時雨と唇を重ねたことは、二人だけの秘密だと約束したけど。それ以外のことなら。
 そう例えば、朔のことだったら。
「どうしました」
「あの、あのね…朔?」
「はい」
 躊躇って、何度も視線をさ迷わせ、少年はおずおずと口を開いた。
「…朔は…その。兄ちゃんに手を握られたら、どきどきするの?」
「……は?」
「だから震えるの?」
「桜太…」
 驚きに目を見開くのは、朔の方。
 相談しようと決心のついた桜太は、追い討ちをかけるようにまっすぐ朔を見上げ、聞いた。
「朔は兄ちゃんに、可愛がって欲しいの?」
「なっ?!…あの、えええっっ!?」
 茹でた蛸のように顔を真っ赤にさせ、朔は言葉を声に出来ず、口をぱくぱくさせている。
 ――み、見られた?!
 他に考えようもない。

 圭吾は朔が大切だと言って憚らないし、人前どころか桜太の前でも平然と手を握ってくる。二人が深い仲だということは周知の事実だから、桜太が知っていてもなんら不思議はないのだが。
 ここまで具体的なことを言う以上、見られたのだろう。圭吾との、熱い時間を。

 ――だから桜太が起きるって言ってるのに、あの男は!!

 真っ赤になって目を白黒させている朔の前で、神妙な面持ちの桜太は、慌てふためく朔を見てはいなかった。
 じっと板の目を数えているかのように床を見つめて。小さな指はそうっと自分の唇に触れている。
「口をくっつけると…みんな手が震えて、その人のことばっかり考えるの?」
「桜太…」
「…それは、変なことじゃないの?」
 桜太の問いかけは、朔の気持ちを聞きたがっているというよりも、自分の気持ちを確かめたがっているように聞こえる。
 そういう年頃なのかもしれない、と。
 強引に結論付けた朔は、何度か深い呼吸を繰り返して、ようやく落ち着きを取り戻した。

 まだ頬に上った血は、引いてくれないけど。桜太の年頃なら、見てしまった秘め事に興味を持ってもおかしくはない。
 誰だってこうして、人に尋ねたり書で読んだりして、肌を重ねるための知識を得るのだから。
 しかし。
 本当ならこれは、圭吾の役割だ。いままで桜太を導いてきた圭吾が、同じように教えてやって、女性を抱く心得を話してやるべきだと思うのに。
 朔の方が、聞きやすいとでも思ったのだろうか?
 ――恨みますよ…圭吾…
 ここにはいない圭吾に、心の中でやつ当たる。顛末を話せば彼はきっと、いつものように面白がって、なんと言ったのか話してみろと言うだろう。そうしてまた、朔をからかって楽しむのだ。

 その様子が容易に想像できてしまって、朔はため息を吐いた。仕方なく自分の足を投げ出すと、桜太の手を引いて膝の上に座らせる。
 背中を胸へ抱き寄せるのは、さすがに顔を見合わせて話す自信がないからだ。
「変なんかじゃありませんよ…」
「朔…?」
「そう、そうですね…こうして。桜太と手を繋いでも、震えはしないんですけどね」
 小さな手を握って、朔は自分の繊細な指先を見せてやる。ね?と囁けば、桜太も頷いた。
「でも本当に、かけがえのない人を見つけたら…その人と手を繋いだら、震えてしまうんです」
「…可愛がって欲しいから?」
「っ…!ま、まあ…そうですね…」
 どこからそんな台詞を持って来たんだろうと考え、朔はまた赤くなる。
 自覚はないのだが、朔は情事の熱に浮かされると「可愛がって」などと圭吾に縋ることが、あるらしい。……なんて話を、意地悪な圭吾から聞かされた覚えがある。おそらくその台詞を、桜太に聞かれたのだろう。
「ねえ桜太…そんなものはきっと、おまけみたいなものなんですよ」
「おまけ?」
「ええ」
「可愛がって欲しいのが?」
「っ!…ええ、そうです。その…か、可愛がって欲しいとか、何かをしてもらいたいとか。そういうのはきっと、あとから考えるものだと思うんですよ」