【明日への約束A】 P:07


 しゅんと下を向いた桜太を見つめ、どうやら圭吾の方が桜太を手離したくないのだと気づいた時雨は「そうだねえ」と思案を巡らせる。

 圭吾の言うことは、もっともな話だ。
 何が理由で少年が町で暮らしたいなどと言うのか、時雨自身にはさっぱりわからないのだが。確かにこんな幼い子供が、一人で住まいを借りられるわけもない。
 桜太が一人で町へ来て暮らしていくには、暮らしを成り立たせるだけの仕事と、寝起きする場所が必要になるだろう。
 そこまで考え、時雨はぽんと手を叩いた。
「ああ、そうだね。じゃあ圭さんは、桜太が働きに出て、自分の面倒を自分で見られるなら、構わないってんだね?」
「…まあな」
「なら簡単だ。あたしが世話してやるよ」
 言い出した時雨に、圭吾どころか朔や桜太まで目を見開いた。
「はあ?!」
「なんだい。それなら構わないんだろ?あてがあるから引き受けてあげるよ。住み込みで働いて、納得できるまで町で暮らしてみりゃあいいじゃないの」
「ちょっと待て、てめえ何言ってやがる」
「これでも大店につてがあるんだよ。…圭さんも知ってんでしょ?」
 ちらりと意味ありげな視線を送ってくる時雨に、圭吾は嫌そうな顔で押し黙った。
 時雨の言う「つて」がどんなものか、圭吾にはわかっている。その大店なら、奉公先としても申し分ないし、万が一桜太がここへ帰って来たいと言い出しても、話を通すことが出来るだろう。
 しかし本当なら、時雨は絶対にその「つて」を使いたくないはずなのだ。使いたくない理由だって、これまでの付き合いで、圭吾は知っている。
 なのにそれを、桜太のためだと言って、動いてくれるというなら。
 そこまで言われたら、圭吾には時雨の申し出を、無下に出来ない。

 厳しい顔で時雨を見つめる圭吾に、遊び人風情の男は、へらりと笑って見せた。真剣な話をこうして誤魔化してしまうのは、時雨の悪い癖だ。
「あんただってさ、楽しみたいでしょ?」
 朔と二人だけの暮らしを。揶揄するような言葉に、圭吾は不機嫌な顔になって眉を寄せる。
「…そういうことじゃねえ」
「圭さん」
「そんなことはどうでもいいんだよ。…朔だって俺だって、そんな暮らしと桜太を天秤にかけるくらいなら、今の方がいい」
「そうですよ…桜太がいてくれて、はじめて私たちは、幸せな暮らしを送っていけるんですから」
 同意する朔と、視線を落としている圭吾を見て、時雨はにやっと笑った。
「やっと白状したね?」
「なんだよ。何を白状したって?」
 睨み付ける圭吾を、恐れるそぶりも見せずに、時雨は肩を竦めている。
「結局はさ、お前さんたち。桜太を手放したくないだけなんでしょうが?わからんでもないよ。こんな可愛い子を手放したい奴なんか、いるもんかい。…でもねえ。子供はいつか、親から離れていくもんだよ?」
 痛いところを指摘され、圭吾は二の句をつげなくなった。
 そう確かに、圭吾は可愛い桜太を、手元から離したくないだけなのだ。
 黙ってしまった圭吾に代わり、朔は桜太を見つめて口を開く。
「どうしても行きたいんですか?桜太」
「うん」
「あなたと離れてしまったら、圭吾はそれこそ寂しい思いをすると思いますよ?…私だってそうです」
 幼い少年の、優しい気持ちに訴えるような、朔の言葉。
 今度は心理作戦かい、と。うんざりした顔になる時雨を見つめ、何事か意志の強い瞳で圭吾と朔を見据えた桜太は、二人に向かって両手をつき、深く頭を下げた。
「ごめんなさいっ」
 迷いの無い声。……そう、馬鹿正直に謝られてしまっては。
「…………」
「…………」
 どうしようもなくて顔を見合わせる、圭吾と朔。時雨は三人を眺め、笑い声を上げた。
「っあははははは!桜太、お前さんの勝ちだよ!」
「時雨…」
 桜太の気持ちが、大人の思惑に勝ったのだ。小気味いい一場面を見せ付けられた時雨は、少年が愛しくて、小さな身体を引き寄せた。
 頭を上げた桜太は、間近になった時雨を見上げる。彼は本当に楽しそうに笑って、桜太の身体を抱きしめてくれた。
 ぞくん、と。何かが背中を走っていく。ぎゅうっと抱き返した頬に、ざらりとあたった時雨の髭。
「なあ圭さん、朔もさ。もうこれ以上、引き止めたりはしないだろうね?桜太がここまで腹括ってんのに、お前さんたちが駄々捏ねるのは、みっともないにもほどがあるよ」
「待て、時雨」