派手な友禅の長羽織を肩にかけ、無精髭で髪を伸ばし放題の、軟派な格好をしている時雨と、このぴんと空気が張り詰めた屋敷は、あまりにも釣り合いが悪い。
時雨を見上げた桜太は、思わず眉を寄せてしまう。じっと屋敷を見つめる彼の横顔が、苦しげに見えたのだ。
あんなにも辛そうな顔をしてまで来るような、ここにどんな用事があるんだろうと。声をかけようかどうしようか、迷う桜太の視界の端に、中年の女性が廊下を通りかかった。
屋敷の使用人らしき女は、二人に目を止め、不審そうに眉を顰めている。
「若旦那…」
低い、不機嫌な声。
時雨のことだろうかと女性の顔を見た桜太は、時雨に視線を戻した途端、驚いて目を見開いた。
「邪魔して悪いね、弥空(みそら)を呼んでくれないかい」
「はあ」
「話は通してあるからさ。頼むよ」
いつものように、困ったような自嘲するような笑みを浮かべる時雨だけど。見上げる桜太は、彼の頬が強張っていることに気づいていた。
それが時雨だと信じられないくらい、彼の横顔には緊張が走っている。いつもと同じように袖の中へ腕を組んでいるけど、もしかしたら時雨の手が震えてるんじゃないかと心配になるくらい。
時雨に弥空という人物を呼ぶよう頼まれた女は、何度も二人を探るように見て、そうしてあからさまなほど迷惑そうな了承を口にし、廊下の向こうへ消えていく。
時雨に向けられていた、冷たい視線。
「時雨…」
呟くように名を呼んだ桜太を見つめ、時雨はそっと口元に指を押し当てて、沈黙を促した。
笑顔の中で揺れている、深い色の瞳。ぎゅうっと自分の着物の袖を握り締め、桜太は下を向いてしまう。
このまま時雨の腕を掴んで、走り出してしまいたい。理由なんかわからないけど、表情の固い先刻の女が、時雨を好ましく思っていないことだけはわかる。
桜太の中にある焦燥感は、苛立つような衝動に姿を変えていく。
ここから時雨を引き離したい。時雨にこんな悲しい顔をさせたくない。
奥の方から聞こえてくる足音に耐え切れず、桜太は自分の荷物を片手に抱えなおした。時雨の着物を掴み、顔を上げる。またあの女の人が現れ、時雨を傷つけるなら。そう思ったのに。
「空(そら)…遅くに悪いね」
そう言って、足音の人物を迎えた時雨は、見てわかるくらい肩から力を抜いた。
きょとんとして、桜太も足音の人物を振り返る。桜太よりいくつか年上と思しき少年。
彼はちらりと伺うように屋敷の奥に視線を投げ、ため息をついて庭へ降りてきた。
「昼にいらっしゃるよりは、いくらかましですよ」
「わかってますよ…文は届いたかい?」
「なんとか」
むすっとした顔をしているが、時雨が空と呼ぶこの少年は、けして時雨を非難しているように見えなかった。声を落としているのは、周囲に気を配っているせいなのかもしれない。
まるで時雨を庇うかのように。
理知的な顔をした少年は、見かけの年よりもずっと落ち着いていて、どことなく時雨に似ている。仕立てのいい着物に、大人びた所作。
彼は桜太と目が合うと、一変してにこりと笑った。
「君が、桜太くん?」
「え…あ。あの、はい」
いきなり名を呼ばれ、動揺を隠せない桜太の様子に首を傾げた弥空は、じろりと時雨を見上げた。
「ちゃんと、説明してから連れて来たんですか?」
「うん?世話するって、言ってあるよ」
「そうじゃなくて。ここがどういう店で、私が誰なのかとか。そういうことですよ」
「あ〜…なあ?」
それは忘れていたと、苦笑いを浮かべる時雨をたしなめる様に睨んで、弥空が肩を竦めている。二人は全然雰囲気が違うのに、そういう仕草がそっくりだ。
弥空は桜太の前に来て、少し屈むと視線を合わせてくれた。
「この店は呉服屋で、近江屋(おうみや)。私は主人の孫で、弥空といいます」
「…はい」
「君を連れてきたこの人は、私の父です」
「はい…え?!」
びっくりした顔で二人を見比べる桜太は、大きな目をぱちぱちさせている。
「お父さん?…時雨、お父さん?弥空…さんの、お父さん?」
交互に二人を見ている桜太が、あまりにも驚くものだから。時雨は肩を竦めて笑った。
「そうだよ。似てないかい?」
「ううん、そんなことないけど…」
慌てて首を振る桜太の前で、弥空が苦い顔をしている。
「まあ、あまりこんな怪しげなおじさんと似ていても、困りますけどね」
「一言余計だよ、お前さんは」
「…じゃあ、お母さんは…?」