【明日への約束B】 P:05


 小さな問いかけに、時雨と弥空は顔を見合わせた。
 呆然とした様子の桜太は、心を揺らせていて、自分の問いかけをよくわかっていない。
 本当は、弥空の母ではなく、時雨の妻のことが聞きたかったのだけど。何と聞いていいか、わからなくて。
「…母は亡くなっています」
 困惑げな、弥空の答え。
 はっとなって、桜太は手にしている荷物を、強く握り締めた。
「あ…あ、あの、ごめんなさいっ」
 余計なことを聞いてしまった自分を恥じて、桜太は泣きそうな顔になる。
 気になったことだからといって、何でもかんでも口に出していいはずがない。時雨と二人だけだというならまだしも、初めて会った弥空に、こんな立ち入ったことを言うべきではないのだ。
 がばっと頭を下げた桜太が、取り返しのつかないようなことをしてしまったとでもいうように、唇を噛み締めるものだから。弥空は微笑を浮かべて、桜太の肩を叩く。
「謝らなくてもいいんですよ。桜太くんにご両親がいらっしゃらないことも、私の方は知ってますし。気にかかることがあったら、なんでも聞いてください」
 弥空の言葉に、今度は目を丸くして。表情の豊かな桜太のかわいい様子に、弥空はくすっと笑った。
「本当に何も聞いていないんですね。…圭吾さんとは何度かお会いしているので、その時に話してもらったんですよ。だから…安心して?」
 自分の知らないところで、圭吾が自分のことを話していたのだと知り、少し赤くなった桜太は改めて弥空を見上げた。
 ああ、そういえば似ている。
 時雨と同じ、深い色をした優しい瞳だ。
「あの…ぼく」
 言いかける桜太を制し、弥空は頷いた。
「話は伺っています。桜太くんが町で暮らしたいと言うので、ここで働かせてやってくれないかと。父がね」
 しっかり者の息子が、時雨の省きすぎた事情を桜太に話してやっている間、時雨自身はじっと庭を見ていた。

 どうしてだろう?桜太に弥空の母のことを聞かれたら、いつもはあまり思い出さないようにしている妻の姿が、時雨の中で鮮明に蘇ったのだ。
 久しぶりにこの庭へ、足を踏み入れたせいだろうか?
 ……この庭は相変わらず、死んだまま。かつてここが、呉服屋に相応しくないほど華やかな庭だったなんて、誰が信じるだろう。
 でもあの頃は、そんな不釣合いに苦言を零されても、笑っていられたのに。

「この店では大勢の人が働いています。桜太くんと同じくらいの年の子も奉公に来ています。…どうです?ここで働いてみますか?」
 尋ねる弥空の声に、時雨は視線を息子に戻した。
「ちょいと空さん、今更そんなこと聞いてどうすんの」
「どうすんの、じゃありませんよ。父が説明して来ないから、ややこしくなってるんじゃありませんか」
 責める息子に、時雨は首を傾げる。
「…ややこしいかい?」
「ややこしいでしょう。いいですか?桜太くんは、自分が連れてこられる先が呉服屋だってことも、こんな大店だってことも知らなかったんですよ?彼がもし職人にでもなりたくて町へ来たいと言っていたら、どうするんです」
「そんな話は聞いてないよ」
「いいから父は、ちょっと黙ってらっしゃい」
 ぴしゃりと言い負かされ、時雨は肩を竦めるけど。その表情はいくぶん和らいで、楽しそうだ。

 弥空は時雨のことを父上でも父さんでもなく、父と呼ぶ。
 少し他人行儀な気もするが、そう呼ぶ声には十分な愛情が感じられて、桜太を微笑ませる。
 なんだか嬉しそうな様子で、父子の応酬を聞いている桜太に向き直り、弥空はさてと、その顔を覗き込んだ。
「どうします?いいんですよ。思うことを言っても」
 気遣ってくれる弥空に、桜太は笑みを返した。
 ここが時雨の家で、自分の意思を丁寧に聞いてくれる少年は、時雨の息子だというのだから。否やという理由はない。
「よろしくお願いします」
 深々と頭を下げる桜太に笑いかけ、弥空は桜太の荷物を受け取ってくれる。
「村からここまで、疲れたでしょう。今日はゆっくり休んでくださいね」
「はい」
 話がついて安心した時雨は、ふいに踵を返した。
「じゃあ空、頼んだよ」
「わかりました」
「…え…」
 驚いたのは桜太だ。

 まさか自分を預けて出て行くとは思わず、慌てて時雨を追いかける。呼び止める弥空の声も聞かずに駆け出していた。
 いくら広い庭だといっても、入ってきた木戸まではいくらもない。大股に離れていく時雨の背中を追いかける桜太は、彼を捕まえようと手を伸ばして。
 しかし後姿のままかけられた言葉に、思わず立ち止まった。