「頑張んな」
圭吾が言ったのと、同じ言葉。
立ち竦んでしまった桜太を振り返り、膝を折った時雨は、最初出会った時と同じように、大きな手で桜太の頭を撫でてくれる。
「ここは、いい家だから。お前さんが頑張れば、きっと良くしてくれるよ」
「時雨…」
首を振るのは、ただ時雨と離れたくなかったからだけど……思いは通じなかった。
一人にされて寂しいのだろうと判断した時雨は、いつもと同じように慈しみの溢れた深い瞳で桜太を見つめ、笑っている。桜太の大好きな顔で。
「自分で決めたんだろう?桜太。…大丈夫だから。ここならあたしも、安心して桜太を預けられる。だから頑張んだよ」
桜太の向こうに大きな屋敷を見つめる時雨は、とても悲しげな表情をしていた。
でもその表情を裏切って、口元に浮かんでいる優しい笑みが、桜太を安心させようと思う気持ちなら。一緒にいたいなどという我がままを、とても言い出すことは出来なくて。
桜太はぎゅうっと手を握り締め、涙の溢れる大きな瞳を閉じた。時雨の暖かい手が、そっと桜太の頬に触れ、くすぐるように耳に触れて、離れていく。
じっと下を向いてしまった桜太の耳に、時雨の足音と木戸の閉まる乾いた音が聞こえた。
「おいで、桜太くん」
時雨に似た、弥空の声。そっと肩を押され、桜太は下を向いたまま歩き出した。
新しい生活は、眩しく輝いていた光を収め、少しずつ暗く影を落としていく。
時雨に言われた通り、桜太は頑張っていた。
町へ来て、もう二度も新月の夜を過ごしている。ふた月を回って、時雨に会えたのはたった一度だけ。それも使いを頼まれた桜太が、通りの向こうに時雨を見かけただけだ。
慌てて追いかけたけど、時雨は桜太に気づかなくて。……だから、会ったとまでは言えないかもしれない。
元より圭吾のもとで、家事の一切を請け負っていた桜太は、なんの苦もなく仕事をこなしていた。商家の仕事は初めてのことばかりだったが、驚くほど仕事を覚えるのが早い。
しかも愛想がよく人懐っこいので、あっという間に使用人たちにも、家の者にも好かれるようになっていた。
近江屋の主人などは、まるで孫が増えたとでも言い出しそうな可愛がり様で、仕事をさせずに連れ回したりするものだから、番頭やら奥方にたしなめられる始末。
そうして可愛がってもらい、日々を過ごす中で、桜太は少しずつ時雨の事情を知るようになった。
若旦那、とは呼ばれてはいるが、この近江屋にいる人々の中で、時雨を好意的に見ているのは弥空だけ。しかし弥空が、父への親愛を表に出すことはない。
時雨のことを他人行儀に「父」と呼び、わざと距離を置いて線を引く弥空は、人々の注意を出来るだけ時雨から引き離そうとしている。
時雨を庇っているのだと気づくにつれ、桜太は弥空を大好きになったけど。弥空はいつも忙しく、なかなかゆっくりと言葉を交わす暇がない。
読み書きにもそろばんにも長けている、出来のいい少年。弥空は近江屋の自慢の孫なのだという。近所の人々からも評判がよく、実際、弥空は本当によく働いていた。
弥空さんを見習いな、と。誰かが口にするたび、桜太は切ない気持ちになる。
聞き覚えのある言葉。
……村にいた頃、桜太の名もよく、その台詞に借り出されていたから。
近所のおかみさんたちは、みんなそう言って我が子を、時には旦那まで叱り飛ばす威勢のいい人達だった。豪快に笑い、「ねえ?桜太ちゃん」なんて自分を振り返るおかみさんたち。でも桜太は、いつも顔を上げられずに下を向いていた。
見習うところなんて、どこにもない。本当は桜太も、友人たちのように無茶をして、遊んでみたかった。
桜太は必死だっただけだ。
家のことをするのも、読み書きを習うのも、嫌いじゃなかったけど。自分の不評がすぐ圭吾の不評に繋がるのだと知っていて、だからこそ少し無理をしていた。
弥空はそんな素振り、見せないけど。でもきっと、彼も少しだけ無理をしている。
それはたぶん、桜太がそうだったからわかること。
弥空さんを見習って欲しいものだと言われるたび、彼は謙虚に微笑んで「そんなことはありません」と応えている。しかし弥空が自分を凄いだなんて少しも思っていないことに、桜太はすぐ気づいた。
弥空もきっと、知っているのだ。自分の不評が、ただでさえ悪い時雨の評判を、いま以上に悪くしてしまうこと。