弥空はきっと、少しだけ無理をしている。少しだけだろうけど、それが意外と疲れるのだと、桜太は知っている。
ほんのたまに、弥空はぼうっと、何もないところを見つめていた。通りがかりにそんな弥空を見つけて、桜太は切なくなる。
でも弥空は、桜太の存在に気づくと、決まって微笑を浮かべ肩を竦めていた。これくらいなんでもないよ、と。彼が呟いているように見えるから。
桜太も無駄に声をかけることはしないで、明るく笑うようにしている。
いま桜太は、寝静まった近江屋の庭先を見つめ、一人で膝を抱えていた。
欠けたところのない、まあるい月に照らされているのは、誰もいない静かな庭。桜太の見つめている先には、小さな木戸がある。
眠れない夜には時折、こうして身体を小さくして、縁側に座ったままじっと、木戸を見つめている。
……あそこから、時雨が現れてくれないかと思って。
へらへらしているくせに、深い眼差しで桜太を見つめてくれる人が、迎えに来てくれるんじゃないかと思って。
叶えられることのない願いは、そっと桜太の睫を濡らせ、朝日を待っている。
時雨が婿養子なのだという話を聞いたのは、近江屋で働き出してからいくらも経たない頃。使用人たちは「種馬時雨」などと陰口を叩いていた。
大好きな人を悪くいう言葉など、聞いていたいはずもなくて。桜太は誰かがそんな会話を始めると、そっと場を離れ、黙って耳を塞ぐ。
でも、どんなに耳を塞いでも、弥空の生まれた経緯は桜太に届いてしまうのだ。
女系家族で男子に恵まれない近江屋は、男系家族の三男坊に生まれた行き場のない時雨を、婿養子として迎えた。ただ男子を欲しただけの縁談は、時雨を金で買うようなやり方だったのだとか。
しかも生まれつき身体の弱かった近江屋の娘は、弥空が生まれてしばらくして、流行り病に天へ召されてしまう。お荷物となった時雨は金を渡され、家に近づくなと放り出された。
弥空を父のない子にしないが為だけの、繋がり。
時雨に課せられたのは、生きているだけでいいという残酷なもの。
それを知ってなお、近江屋の人々はふらふら遊んでいる時雨を憎み、嘲笑する。いい気なものだと蔑んでいる。
時雨の話題が出るたび、弥空は穏やかな笑みを浮かべて、やんわりと話題を変えていた。
桜太は当初、弥空の意図がわからずに、どうして怒ってくれないのだろうかと、悲しく思っていたけど。
違うのだ。
大勢の大人の中にあって、弥空は一人、時雨を守り庇うために、彼らの言葉に逆らおうとせず、酷い言葉を聞き流している。どんなに腹立たしい言葉を聞かされても、笑みさえ浮かべてやんわり受け流している。
人々の言葉を肯定することで、それ以上時雨のことが彼らの意識にのぼらぬよう、話題にさえ出ぬように、そっと父の存在を覆い隠しているのだ。
人は自分の思い込んだ人物像を否定されると、躍起になって反論するものだから。
だから弥空のやり方が、この大店の中で味方のない状況では、唯一時雨を守る方法なのだろう。
同じようにするのがいくら時雨のためだとわかっていても、どうしても同じようには出来そうになくて、桜太の苦しい気持ちは日に日に重くなっている。
時雨は優しいのだと、自分は時雨が大好きなのだと、そう言いたい。大きな手が温かくて、見つめてくれる目がとてもきれいなことを、大声で叫んでしまいたい。
でも会えない日が長く続きすぎて、毎日のように時雨を悪く言う人達に囲まれていると、いつか自分の心までが弱くなってしまいそうで。
……怖くて仕方なかった。
明るい月に優しく見守られている桜太は、じっと膝を抱えたまま、全く眠気を覚えられずに、木戸を見つめていた。
……時々どうしようもない寂しさに襲われて、帰りたくなってしまう。
時雨が頑張れというなら、頑張るけど。このまま時雨に会えないなら、圭吾のところへ帰ってしまいたい。
「泣いてるの?」
静かな声をかけられて、桜太はびくりと肩を震わせ振り返った。
「弥空さん…」
羽織を肩にかけた弥空が、蹲る桜太を見下ろしている。首を振ってみるが、こんなに泣き腫らした目をしていたら、誤魔化せているはずがないだろう。
「どうしたの。…仕事が辛いかい?」
優しい言葉に、桜太は頑なな様子で、もう一度首を振った。
苦笑いを浮かべた弥空は、そっと桜太に近寄り、隣に座って、肩を撫でてやる。