【明日への約束C】 P:02


 どんな育て方をしたのだろう。弥空といい、桜太といい、子供たちには教えられることばかりだ。
 時雨は弥空を育てたとはいえない。
 深夕が死んですぐに放り出された時雨は、弥空をそばで見守ってやることが出来なかった。
 手の届かないところで育った弥空は、時雨に厳しいことを言うこともあるが、とても心の優しい子だ。なにより自分自身に厳しくて、それが少し心配なのだけど。
「元気にしているかねえ…」
 ぼんやり呟くのは、桜太のこと。

 近江屋で別れたとき、桜太は今にも泣き出しそうな顔をしていた。頑張りなさいと言った時雨の前で、震えながら唇を噛み締めていた。
 いつもいつも笑みを浮かべ、まるで世界には辛いことなんかないとでも思わせてしまいそうな桜太。優しい少年の泣きそうな顔は、今も時雨の心に突き刺さる。
 自分に救いの言葉をくれた少年のこと、時雨自身は守ってやれなかったのだろうか?
 近江屋の人々は、時雨以外の人間には寛大だから。そう思って、桜太を預けたのだけど。
 あんな風に泣きそうな顔をされたら、それを堪えるために必死な様子を見てしまったら、圭吾のもとから町へ連れて来たことを、少しだけ後悔してしまう。

 もう、ふた月になるだろうか。
 その間、弥空からは「皆に可愛がられている」「一生懸命に働いている」と、何度か文が届けられていた。
 時雨も町で二度ほど、桜太を見かけている。
 義父に連れられ、笑っていた桜太。あれを見たとき、どうにも不安になってしまったのは、何だろう?
 桜太は笑っていたのに。
 義父の方も、しっかりした弥空にはしてやれないから、とでも言うように眉尻を下げ、桜太を可愛がっていた。
 しかし笑顔を浮かべて、義父の隣を歩いている桜太を見たとき、時雨の心には言い知れない不安が広がったのだ。
 ふっと、息をつく。
 不安に思って、だからなんだというのだ。時雨にしてやれることなど、もうないのに。

「…旦那」
 襖の向こうから声をかけられ、時雨は少しだけ身体を浮かせた。
「なんだい?」
 答えると、わずかに襖が開く。顔を覗かせるのは、この相模屋の使用人。
「弥空さんから、言伝(ことづて)が」
「ああ、入んなよ」
「いえ、あっしじゃなくて。言伝を預かっているという者が来ておりますが、どうしやす」
 時雨は首をかしげた。
 確かにここへいる間には、弥空からの文や言伝が届くのだが。息子が誰かを派遣してきたのは初めてのことだ。しかも……
「こんな遅くにかい?」
「へい」
 なんだろう、何かあったんだろうか。
 ざわつく気持ちを落ち着かせ、半端に身体を起こしていた時雨は、胡坐をかいて座った。乱れていた着物を、適当に整える。
「呼んどくれ」
「へい…おい、こっちだ。入んな」
 後ろを向いて、誰か呼んでいる声。
 使用人の男が消えて、代わりに襖を開けた人物。ぼろぼろ泣きながら立っているその姿に、時雨は目を見開いた。

「桜太…!」
「ひっく…ぅ」
「ちょ、なんだい、どうした?!」
「しぐれ…しぐれぇっ!」
 飛び込んでくる小さな身体を受け止めてやって、時雨は桜太を抱きしめる。
 そっと部屋の外側から襖が閉められている間も、桜太は時雨に取り縋り、声を上げて泣いていた。
「どうしたんだい…こんな遅くに」
「っふ…め、なさ…ごめんなさ…っ」
「いや、怒ってるんじゃないよ桜太。ここのことは空(そら)に聞いたんだね?」
「んっ…うんっ」
 とにかく落ち着きな、と囁いて。時雨は桜太を抱き直すと、大きな手で彼の身体を撫でてやった。
 華奢な肩、震える背中。
 そうして、さらさらと細い桜太の髪。
 さわり心地のいい髪に触れ、なんだか時雨のほうこそぎゅっと胸が詰まった。

 泣き声が小さくなって、桜太がやっと顔を上げて。
 目のふちを真っ赤にさせている桜太は、まだ涙を流しながら時雨を見つめている。
「…桜太、どうしたんだい」
「時雨…会いたかった…」
「ああ、あたしも会えて嬉しいよ」
「時雨っ」
 首筋に抱きついてくる桜太は、時雨の長い髪を縋るように掴んでいる。とんとんと宥めるように背中を叩いてやりながら、時雨は眉を寄せた。
「しかし本当に…どうしたんだい?こんな夜中に。…仕事が辛くなったかい?」
 ゆっくり時雨の髪を離した桜太は、時雨の腕の中で顔をあげ、首を横に振った。
「じゃあ、誰かに苛められでもしたかい?」
「時雨…」
「もしそうなら、空に相談して…」
「違う、違うよ時雨」