首を振って否定する桜太の小さな手が、時雨の頬に触れた。
包むように両手で時雨の頬に触れ、無精ひげを撫でて、そうして。
桜太は安堵したかのように、笑みを浮かべる。
それは子供らしい、無邪気な笑い方じゃなくて。目を細め、笑み崩れていく桜太は、艶めかしささえ滲ませ、まっすぐに時雨を射抜いていた。
「…桜太?」
こんな、大人びた顔をする子だったろうか。
「時雨に、会いたかったから」
「……あたしに?」
「時雨のそばにいたいよ…時雨と一緒にいないと、ここへ来た意味がない」
睫を伏せ、上目遣いに時雨を見つめて。何度かまばたきをして見せた桜太は、そっと身体を伸ばして、時雨の唇に自分の唇を触れさせた。
「会いたかった…ねえ時雨、会いたかったんだよ?」
「桜太、ちょっと待ちなって」
「ぼくは時雨と一緒にいたいから、町へ来たんだもん」
「…なんだって?」
目を見開く時雨を見て、桜太はふふっと楽しげに笑う。
色っぽいくらいの表情。
時雨はぞくっと背中を走った己の欲に戸惑い、そうして、さあっと青ざめた。
忘れてはいない。桜太の身体を抱きしめて、唇を重ねた時間。悪戯のつもりが夢中になってしまって、取り返しがつかないくらい、この子の愛しさに溺れた自分。
「桜太…」
「時雨が頑張りなさいって言ったから、ちゃんと頑張ってたんだけど」
「あ…ああ。空から聞いてる」
「うん。…でもどうしても時雨に会いたくて、そばにいたくて…。そう言ったら、弥空さんがいいよって」
「は…?」
「時雨のそばにいたいなら、そうしていいよって。ここに時雨がいること、教えてくれたの」
桜太の想いを聞いた上で、それでも弥空は桜太の背中を押したとでも言うのだろうか?そういえば桜太の着ている羽織は、弥空のものだ。
混乱している時雨の首筋に、桜太はもう一度抱きついた。
桜太が噛み締めているのは、あったかい身体。夢にまで見ていた時雨の、その腕の中に自分がいることの幸せ。
「朔が言ってたよ…好きな人と一緒にいたいと思う気持ちは、なによりかけがえのないものだって…どんなに苦しくても、一緒にいれば幸せなんだって」
甘い囁きに、時雨の心は乱れていた。
濃密な告白に歓喜する気持ちと、幼い子供にこんな言葉を言わせてしまっている焦りと。どうしようもない程の愛しさと、背筋が凍るような恐怖。
真っ白な心を穢しているのが自分だということに、恐れと痛みを感じている。
でも突き放してしまうには、抱きしめた小さな身体が熱くて。
「桜太、ちょっと…待ちな」
「どうしたの、時雨?」
頭を振り、必死で理性を繋ぎとめた時雨は、桜太を自分から引き離して、その顔を覗き込んだ。
「お前さん、何か勘違いしているようだよ」
「…え?」
説明するにはこの方が早い、とばかりに、ちゅっと小さな唇を吸ってやる。桜太の顔は、みるみる赤くなっていった。
「こんなことをされたの、初めてだったんだろう?」
「…うん」
「悪かったね、桜太。お前さん、それで勘違いしたんだ」
「…………」
「大人はね、これっくらいのこと慣れたもんなんだよ。あたしも別に、そんな大仰なことを考えてしたんじゃない。…ねえお前さん、もうちょっとちゃんと考えて…」
諭してやる時雨は、ぎょっとして口を噤んでしまった。桜太の目に溢れた涙が、さっきまでとは違う表情を見せて、小さな頬を伝っていく。
会いたかったと泣きじゃくっていた時の桜太とは、比べ物にならないくらい辛そうな顔。
「…どうして信じてくれないの?」
「桜太…」
「ぼく、ちゃんと考えたよ…」
「…………」
「兄ちゃんや朔と離れるの、嫌だったけど。時雨と一緒にいられるなら我慢できるって。もっとたくさん時雨を知りたいから、そばにいたいって」
「だから桜太、それは」
「間違いじゃないもん…」
時雨の着物を掴んでいた手が、そっと伸びてくる。幼い指先が、時雨の目元を辿っている。
「あのとき時雨は、何も考えてなかったかもしれないけど。ぼくはちゃんと考えたよ…時雨と一緒にいたい」
熱っぽい言葉。
潤んだ瞳が、時雨を映している。
「ねえ時雨…信じて…」
薄く開いた唇。
零れてくる切ない嘆願に、時雨は思わず顔を寄せ、桜太の口を塞いだ。
――ねえ時雨…もしこの先、誰かが時雨に手を伸ばしたら、きっとその手を取ってあげてね…。たくさん幸せをあげて、幸せをもらってね…
いまわの際で、深夕は囁いていた。彼女の言葉が背中を押して、時雨を困らせる。
お前が逝ってしまうなら、もう誰もいらないんだと泣いたのは、自分だったはずなのに。