抑えようもなく、何度も何度も桜太の唇を吸い、狭い口の中を舐めていた。いろんな気持ちがぱんぱんになって、時雨を混乱させている。
「ん…っ、ふ…」
喘ぐ声にはっとなった時雨は慌てて、再び桜太の身体を引き離した。
「っ…しぐ、れ?」
頬を染めた桜太の、酔うような瞳。大きくて、泣きそうに潤んだ……澄んだ瞳。
時雨は頭を振る。
こんなことは、間違いだ。
「…ごめんよ、桜太」
「え、なに?」
「やっぱりお前さんは、勘違いをしているよ」
「時雨っ」
首を振る桜太を強引に自分から遠ざけ、時雨は立ち上がった。
目を合わせられない。もう一度間近に見つめ合ってしまったら、今度は止まらない気がする。
「今日はもう遅いから、ここへ泊まんな。…明日は店に戻るんだよ」
言い放った時雨を見上げる桜太は、何か言いたそうに口を開きかけたけど。結局は言えずに、黙っていた。
勘違いはあたしの方だ、と。
腕を組んで眉を寄せる時雨は、己の不甲斐なさに憤り、頬を強張らせている。
時雨は壁に寄りかかって、ため息をついていた。
視線の先では小さな身体が拗ねてむくれて、向かい側の壁を睨むように見つめ、膝を抱えている。
「……はあ……」
あれから半月が経とうかというのに、いまだ時雨は、桜太を近江屋へ帰せていないのだ。
「ちょいと…なんとかお言いよ、時雨さん」
「なんとかって言われてもねえ…」
時雨の袖を引っ張るのは、この家の主。三味線を教えて生計を立てている小春(こはる)は、今年三十になろうかという芸者上がりの色っぽい女だ。
二人に見つめられている桜太は、少しだけ後ろを振り返り、またぷいっと壁の方を向いてしまう。
泣き腫らした目元が痛々しくて、黙っている姿がけなげで、小春はぎゅうっと時雨の腕をつねった。
「いって!」
「あんたのせいじゃないさっ!こんな可愛い子を泣かせてっ」
「いやだからさ、小春。そう思うなら、お前さんが近江屋へ連れて行ってやんなよ」
「ぼく帰らないからねっ!」
尖った声に言い返されて、二人は顔を見合わせた。
時雨としても、努力を惜しんではいないのだ。
桜太が相模屋に現れ、一緒にいたいと告白した翌日から、何度も弥空に桜太を迎えに来るよう使いを出している。しかし弥空は、全く応じようとしない。
ただ一度だけ文が返ってきて、そこには一言
――観念なさい。
と書かれていた。
無茶を言うものだ。そもそも、何を観念しろというのか。
そんなこと、許されるはずがないのに。
仕方なく桜太をつれて歩く時雨だが、可哀想に思いながらも諦めさせるため、こうしていつも通り、適当な女と夜を共にし、目の前で寄り添って見せたりしているのだが。
……桜太が諦める気配など、微塵もない。
最初こそ青ざめて、時雨とその相手から顔を逸らせていた桜太なのに。今はもう慣れてしまったのか、目の前でどんなにいちゃついて見せたって、平然としたもの。
邪魔をするなと言ってやった時雨の言葉を、桜太は素直に受け入れた。
受け入れたが、女との時間を邪魔しない代わり、襖一枚、衝立一つ遮った向こうで、一晩中おとなしく、時雨が声をかけてやるのを待っているのだ。
こうなると、ばつが悪いのは時雨の方で。
「小春ちゃ〜んっ」
二階建長屋の階下から呼ぶ声に、小春は二人を気にしつつも返事をして、とんとんと階段を下りていく。
二人きりになったとたん、桜太はくるりと時雨のほうを向いた。
「桜太…」
「時雨はなんにもわかってないよっ」
きっと睨みつけられて、時雨はしぶしぶ居住まいを正した。
叱られる筋合いは、ないはずだけど。
「どうして色んな女の人に、同じこと言うの」
「どうしてって…」
「ずっとここに居てって小春さんに言われたとき、どうして今晩はここに居られないって言わなかったの?」
「いやだから…なんてえか。ねえ?」
「ねえじゃないよっ!今日は新月なんだから、相模屋さんへ行くんでしょ?!弥空さんと約束してるのにっ」
もっともな正論に、時雨は曖昧な笑みを浮かべ、顎鬚を掻いていた。
女たちが「ずっとここに居なさいな」と言い、時雨が「そうだねえ」とまんざらでもない顔をするのは、いつものこと。
女たちも本気ではないし、時雨がなんと答えたって、彼女たちは時雨が二晩続けて同じ女性ととこを共にしないことを知っている。
睦言の延長でしかない会話なのだが、介在している嘘を、桜太は納得できないのだ。