「泣かないで、小春さん」
「桜太ちゃん…」
「きっと、ぼくなんかよりいい子になってるよ…。ごめんね?ぼく、どうしても時雨のそばにいたい…」
眉寄せ、心配するように小春を見上げて。目元を拭ってやる桜太は、何度も「泣かないで」と囁いている。
小春が泣いていたら、この家を出て行けないからと。
自分の方こそ泣きそうに、一生懸命慰めている桜太を抱きしめて。ひとしきり泣いた小春は、じっと時雨を見据えた。
「あんた、桜太ちゃんを泣かせたら、承知しないよ」
「泣いてんのは桜太じゃなくて、お前さんでしょうが」
「うるさいねっ!女が泣いてんのに、慰め一つ言えないのかい。あんたなんかより、桜太ちゃんの方がずっといい男だよ」
小春の八つ当たりでしかない言葉に、時雨は息を吐く。こうして責められるのにも、随分慣れてしまった。
なんというか、桜太との事情を聞いた女たちは、時雨と肌を重ねている間はけっこう面白がっているのに。夜が明け、桜太と言葉を交わすようになると、皆同じように時雨を責める。
その姿は昨夜、一緒になって桜太に大人の情事を見せ付けていたことなど、忘れてしまったかのようだ。
……皆一様にして桜太を抱きしめ、誰にも話せなかった辛い過去を吐露して、小さな手に涙を拭ってもらう。
そうして、きっとばかりに顔を上げ、時雨を責めるのだ。
ほら、こうして。
いま小春がしているように。
「しばらくここへは来ないどくれ。あたしは桜太ちゃんを傷つける片棒なんて、担がないからね」
ああ、まただ。
時雨は毎日一人ずつ、夜の相手を失っている。
「はいはい、わかったよ」
うんざりした声で返事をする時雨から、桜太に視線を移した瞬間。般若が菩薩に変わった。
「…あんたは別だよ、桜太ちゃん。時雨のことが嫌になったら、いつでもあたしのところへおいで」
「小春さん」
「待ってるからね。本当に、いつでも来ていいんだよ」
「うん。ありがとう、小春さん」
にこりと微笑んだ桜太を、小春はもう一度抱きしめる。
やっぱり可愛いっ!と叫ぶ彼女に、時雨は心底嫌そうな顔で煙管を咥えていた。
女たちに言われるまでもなく、桜太が可愛いことなど百も承知だ。
顔かたちのことじゃない。
桜太の柔らかく澄んだ心に触れていると、あまりの心地よさに酔って、動けなくなるほど。
小春のところで起こった大福のような騒ぎを、時雨は何度も経験している。
どうしても桜太は自分のことより、人のことが気にかかって、己に我慢を課してしまうらしい。
まだ桜太を良く知らなかった頃、時雨は圭吾から「もう少し我がままになって欲しい」という言葉を聞かされていた。
その時はよくわからなかったのだ。
子供なんて、多かれ少なかれ我がままなものなのに。あえて「我がままになれ」なんて、おかしなことを言うと思っていたけど。
桜太としばらく一緒にいれば、嫌でもわかってくる。
少年の優しさは、疲れた大人の心に響いて、思わず涙を流させたりするけど。しだいに大人を不安にさせていくのだ。
言いたいことも言えず、したいことも出来ないでいるんじゃないか。無神経な自分たちが、この子に苦しみを押し付けているんじゃないかと思って。
昼過ぎに小春の家を出た時雨は、やはり桜太を連れて歩いている。
今日もまた、この子を手放せなかった。
別れ際、小春は時雨に「あんた本当は、この子を手放す気なんかないんだろ」と囁いた。何の冗談だと驚く時雨に、笑み一つ浮かべない小春は、弥空と同じ台詞を吐いたのだ。
……観念しな、と。
時雨は首を振る。自分はちゃんと、桜太を手放す努力をしているはずだ。
桜太に勘違いをわからせ、自分を諦めさせて、圭吾のもとか、せめて近江屋へ帰すように。毎日のように桜太を言い含めているし、自分が遊び人で、女にだらしない男だと言うことを見せてやっている。それでも離れないのは、桜太の方だ。
時雨はふと足を止めた。
そう言えば、さっきから桜太が大人しい。
「…どうかしたかい?」
「ううん、なんでもない」
じっと足元を見つめている桜太は、顔を上げようとしない。
思えば小春と別れたあたりから、しだいに口数が減っているような。
「小春のところへ帰りたいかい?」
横に振られる、小さな頭。
当然の答えに「そりゃそうか」と呟いた時雨は、わけがわからず桜太の髪を撫で、何気なく空を見上げた。
日の傾いた空には分厚い雲がかかって、新月の天上を余計に重苦しくしている。
「…一雨来そうだねえ」
時雨の呟きに、桜太の肩がびくっと震えた。