「?…桜太?」
「なんでもないっ」
「なんでもないって…」
時雨の羽織にしがみついている桜太は、可哀想なくらい震えているのに?
「一体、どうしたってんだい」
「なんでもない。なんでもないの…ねえ、時雨。早く行こう?」
懸命に促す桜太に引きずられ、時雨は足を進める。近江屋の前を通らず、少し遠回りして相模屋へ。
馴染みの宿に足を踏み入れてもしかし、桜太は黙ったままだ。
いい加減時雨が首を傾げていると、珍しく古い友人が通りがかった。
「よう時雨、今日は早ええな」
「喜助じゃないか、久しぶりだねえ」
幼い頃の喜助は、時雨よりずっと小柄だったのに。今ではすっかり恰幅が良くなって、同い年の時雨よりも随分と年上に見える。宿屋の主人も、なにかと気苦労が多いのだろう。
「毎度贔屓にしてもらっているようだな」
「まあね。世話になってるよ」
「ふん…近江屋の旦那も、いい加減にしとけばいいものを」
「そう言いなさんな」
年寄りが丸くなったって碌な事がない、と。時雨の言葉ににやりと笑った友人は、ふと桜太に目を止め、首を傾げた。
「…弥空?随分と縮んだな」
「馬鹿を言うんじゃないよ」
自分の話だと気づき、桜太はやっと顔を上げる。
その顔色を見て、時雨は目を見張った。
「こんばんは…」
「ああ、こんばんは。そうかお前さんが、時雨について回ってるいう坊主か」
喜助に頭を撫でられ、桜太はくすぐったそうにして、微笑んだけど。その顔は真っ青だ。
「…どうしたんだい、桜太」
「ん…なんでもない」
「なんでもないって顔色じゃないだろっ…上げてもらうよ、いいかい」
「ああ。…まだ早いが、床の用意をさせるか?」
「頼む」
話の早い喜助に答える時雨の手を、桜太が掴んだ。
「いいよ、時雨…大丈夫」
「そんな顔で何言ってんだいっ」
がばっと桜太を抱き上げた時雨は、足早に二階へ上がっていく。追いかけてきた相模屋の女が手早く床の用意をする間、時雨は桜太の身体をずっと抱きしめていた。
深夕が倒れたのは、突然のことだった。彼女が床について、息を引き取るまで十日もかからなかった。
心の準備も、かけてやりたい言葉を考える暇もなかったのだ。あの時のことは、後悔しか思い出せない。
桜太を無理矢理に布団へ押し込んだ時雨は、蒼白になっていた。また自分は後悔ばかりするのかと。いや、今度はそうはいかない。
「使いを出して、圭さんに連絡を…ああ、先にお医者だ」
動揺している時雨の手。その手を桜太がぎゅうっと強く掴んだ。
「待って時雨」
「いいから寝てな!こんなときまで我慢すると怒るよっ!」
「違う、違うの時雨!お願い聞いてっ」
押し込められている布団を跳ね除け、桜太は時雨に身体ごとぶつかってきた。顔色はまだ、戻ってはいないけど。抱きつく小さな手は、力強くて少しだけ時雨を安心させる。
「なんだい…なにを言うんだい…」
思い出すのは、深夕の言葉ばかり。最期を悟った彼女は、時を惜しむかのように、思いを口にしていたから。
でも桜太は、時雨の目をしっかり見つめ、懸命に笑みを浮かべている。
「身体はなんともないから。大丈夫」
「…なんだって?」
「本当だよ?嘘なんかついてない。身体はどこも悪くないの。…落ち着いて」
穏やかな声に諭され、ふらついた時雨はその場にへたり込んだ。
確かにちゃんと見れば、桜太は少し青ざめているだけで、熱を出している様子も咳き込んでいるわけでもない。
慌てふためき、動揺して、勝手に思い込んだのは時雨のほう。
深く息をついて、長い髪をかきあげた。
「…脅かすんじゃないよ…」
蹲る時雨は、指一本動かせないほどに脱力していた。
「ごめんね、心配させて。…大丈夫?」
「大丈夫じゃないよ、お前さんはまったく…」
ふうっと大きく息を吐いた時雨は、立ち上がる気力を出せずに桜太を見つめた。どうやら本当に、身体を悪くしているわけではないらしい。
「…桜太、あたしの髪をほどいて、結い紐をそこの障子を開けたところに結んでおいてくれないかい?」
それが相模屋に滞在していることを知らせる、弥空への合図だということは、桜太にも話してある。しかし何気ない時雨の台詞に、桜太はびくりと肩を震わせた。
「…?桜太、どうした?」
「な、なんでもない」
立ち上がった桜太は、時雨の後ろに回って髪をほどき、きれいな色の結い紐を外した。
時雨に言われた通り、窓まで行って…そのまま。桜太は何かを躊躇い、障子の前に立ち竦んでいる。
「…桜太?」
「だ、大丈夫」
「……?」
時雨が見つめる先。