【明日への約束C】 P:09


 自己嫌悪に下を向く桜太を、安心させてやりたくて選んだはずの話。でもそれは、誰にも聞かせたことのない思いだ。
 ふうっと、息をついて。
 桜太の身体を膝に乗せたまま、小さな両手を握った。
「あたしにはねえ…勿体無いくらいの嫁さんがいたんだよ」
「…弥空さんの、お母さん」
「ああ。近江屋で聞いたかい?」
「ん…。とってもきれいな人だったって。あの…流行り病で…」
「そう…とても高い熱が出る病でね。あっという間に死んじまった。…ほんとにねえ…あたしは隣でおろおろしてるだけだったよ」
「時雨…」
 きれいなきれいな深夕。
 白い肌が熱に高潮して、柔らかく染まって、余計に美しく見えたのを覚えている。
「何もしてやれなかったことを、悔いて悔いてねえ。いっそあたしも死んじまおうかってさ…そんなことしても、深夕は喜ばないのにね」
「みゆうさん、っていうの?」
「ああ。深い夕暮れって書いてね、みゆうっていうんだよ」
 桜太の小さな手に、指先で書いて教えてやる。
 そのときのことを知っている人たちは、時雨を悲しませまいと、深夕の話を避けるから。誰かと彼女のことを話すのは、本当に久しぶりだ。
「花を咲かせるのが上手い女でさ。箱入り娘だから、世間のこと何にも知らないんだよ。ちょっと珍しいもの見ると、子供みたいにはしゃぐもんだから…あたしの友達が、面白がって色んなものを持ってきてね」
「どんなもの?」
「うん?…そうだねえ…」
 尋ねる桜太の顔を見ると、少年は穏やかに柔らかく、時雨を包み込むように微笑んでいた。彼の気持ちを考えれば、恋敵の話を聞かされているのだろうけど。ひとつも嫌そうな表情をしないのだ。

 そうきっと桜太は、自覚があってやっているわけじゃない。
 女たちが切ない過去を話すのも、時雨が深夕の話を聞いて欲しいと思うのも、桜太がその柔らかく大きな心で受け止めてくれると、わかってしまうから。
 あんなに雷に怯えていたはずの桜太は、いま優しく微笑んで、時雨を促してくれている。

「不思議な話の絵草子とか、凝った細工の簪とかね。…張り子の人形もらって、一日中眺めてるような女なんだよ」
「かわいいね」
 くすくす笑う桜太につられ、時雨も笑みを浮かべる。

 変わった色の朝顔が咲いたと言って。線香花火が誰より長く弾けていたと言って。深夕は何でもかんでも喜んでいた。
 本当に愛しかった。
 そうやって、少女のように笑う彼女を、大切にしてやりたいと思っていた。

「…深夕が死んだとき、あたしは何もかもを亡くしたように思ったよ…。そばで心配そうにしてる、小さい弥空のことさえ目に入らなかった。自分ひとりが悲しいんだと思い込んで、親父さんに出て行けと言われたときも、空を振り返ってやらなかった」
「時雨…」
「自業自得だ…深夕に似た面差しの空を見るのが辛くて、深夕を思い出すのが怖くて、あたしは逃げたんだよ」
 自虐的な言葉を吐いた時雨は、小さな手が頬を撫でるのに、胸を痛くする。
 かあっと目頭を襲った熱をに黙って耐えていると、桜太がそっと首筋に手を回して抱きついてきた。
「大事なひとだったんでしょう?」
「桜太…」
 桜太を心配して動揺した時雨が、自分と深夕を重ねてしまったことに、気づいたのだろう。少年は時雨の瞳を正面から捉え、真剣な眼差しで言葉を紡いだ。
「…ぼくは死んだりしないよ、心配しないで」
「そんなこと、わからないだろう?」
 子供のようなことを言ってるな、と自覚しているのに。そうやって我がままを口にしてしまった時雨は、桜太のくすくす笑う声を聞いた。
「なに笑ってんだい、桜太」
「だって。…ねえ時雨?ぼくはまだ子供だけど…まだ子供だから。時雨より先に死んだりしないってば。時雨がぼくを大事にしてくれるなら…どんな重たい病にかかっても、絶対一人で先に死んだりしないって、約束する」
「大きく出たねえ」
 つい皮肉げに笑ってしまった時雨は、包み込むような桜太の微笑みに、泣きたくなっていた。
「ほんとだもん。約束は、守るためのものでしょう?」
 するりと腕を緩めた桜太が、間近で時雨を見つめている。悪戯っぽい笑みを浮かべ、小さな舌で時雨の唇を舐めた。

 心配しないで、約束は守るから。
 もう二度と、時雨を一人置いて行ったりしないよ。

 一番欲しい約束を見つけた桜太が、ふふっと優しく口元を綻ばせて、時雨を見ている。
 大人びた表情に包まれ、時雨は引き寄せられるようにして口付けていた。

 そうであればいい、と思う。
 もう二度と大事な人を亡くしたくない。

 子供のようだった深夕と、大人びている桜太は、全然違うようでいて、どこか似ている。