「いい加減にしねえか時雨」
たまりかねて喜助が声をかけても、時雨は表情をなくしたまま、何も言おうとしない。
「坊主の手当てが先だろう。お前はどこも痛めていないのか?時雨」
「…………」
「ったく…おい坊主、切られたのは腕だけか?」
「…うん」
「誰か、医者を呼んで来い。それから坊主を向こうへ…」
使用人たちに声をかける喜助の前で、時雨は桜太の、怪我をしていない方の腕を引きずり上げた。
「時雨、何する気だ」
「うるさい」
「待てお前、おいっ」
「うるさい!誰も桜太に関わるなっ!」
傲然と言い放った時雨は、そのまま桜太を引きずるようにして相模屋を出て行く。
何も言わず、青ざめたまま引きずられていく桜太と、鬼の形相で荒々しく歩く時雨に、野次馬たちも無言で道を開けた。表まで追いかけた喜助も、仕方なく二人を見送る。
新月の暗い町。
雨に濡れた歩きにくい道によろめく桜太を、少しも気遣ってやることのない時雨。二人の姿が、遠くなっていった。
月のない町で、唯一ぽうっとした光が灯っているところ。この宿場町にも、女郎屋の並んだ一角がある。
江戸の吉原では夜四つ(午後十時頃)に大門が閉められ、厳しい統制が敷かれているらしいが、ここはそんな高尚な遊び場じゃない。ただ色を売る女たちを置いて、客を呼び込んでいるだけの場所。
いつもなら夜遅くまで、人の声がしている。
しかしこんな、雨が降った後の新月。それもたいがい遅い時間になっていては、どこの店も軒先に灯りを添えているだけで、ぴたりと表の扉を閉じてしまっていた。
好きものの客を抱え込み、情欲を露にして、秘めやかな遊びに興じる時間。
そんな静まり返る色町の、大通りを少し外れたところに、数軒の陰間茶屋が軒を並べていた。男の相手をする少年たちが、毎夜着飾って客の袖を引く、陰間茶屋。
しかしそれとて、夜五つを回っては、さすがにどこももう扉を閉めてしまっている。
時雨が桜太を連れて上がりこんだ一軒も、本日の営業を終え、あとは招き入れた客の精と金を絞り取るだけの時間だったけど。無理やり戸を明けさせられた店は、顔なじみの時雨が不躾に金子(きんす)をばら撒くと、あからさまに嫌そうだった態度を一変させた。
「ったく、旦那にも困ったもんだ」
店の主人はへらへら笑っている。それを見下ろす時雨の、冷たい表情。茶屋で遊ぶつもりのある客には、到底見えなかった。
「どうでもいいよ…部屋を空けるのかい、空けないのかい」
「空けます、空けますよ。でも旦那、もうお高い部屋しかございませんよ?」
「構わん…葉霧(はぎり)を呼びな」
いつもとは様子の違う時雨を、不思議そうに見上げながらも。文字通りばら撒かれてしまった金を拾い集める、腰の曲がった男は、下卑た笑いを浮かべ奥に向かって声をかけた。
腕をつかまれたまま、桜太は泣きそうに時雨を見上げている。
時雨と共に毎日を送るようになって、叱られたことがなかったわけじゃない。しかし誰に対してでも、感情的になったりはしない時雨が、こんなに憤る姿を見たのは初めてだ。
いつも飄々として、笑っているのに。
頬を強張らせ、強い力で腕を引いて、一度も桜太を振り返ってくれなかった。
静かな茶屋の中に、ぱたぱたと足音が聞こえ、不自然に着飾った少年が現れる。年は弥空(みそら)よりも、少し上くらいか。綺麗どころというわけではないが、優しげな面差しが可愛らしい少年。
「あれえ、時雨様。どうなさったの」
「一番奥の部屋へお通ししなさい、ほら早く。あたしは葉霧を呼んでくるから」
「葉霧さんを?」
少年の名ではないらしく、彼は葉霧という名に首を傾げている。
ぽやっと立ち止まる少年を、男は急かしていた。まるで上客を逃すまいとでも言うように。
「いいから!お前は早く、旦那をお通ししてっ」
「はあい」
少年はちらりと桜太を見て、訝しそうに首を傾げながらも、にこりと笑いかけてくれた。
通された部屋はいつも時雨が逗留している、相模屋の部屋よりずっと上等で、二間続きの部屋に高そうな調度品が置いてあった。奥の間に布団が延べられていて、淡く行灯(あんどん)の明かりが枕元を照らしている。
不機嫌な顔の時雨は部屋に着くと、突き飛ばすようにして、案内の少年に桜太を渡した。
「手当てをしてやんな」
「手当て?…あれあれ、怪我してるじゃないか。痛くはないかい?」
「う、うん」
桜太の血で汚れた腕を見た少年は、慌てて部屋を出ていく。
入れ違いに姿を現したのは、派手な着物に女のような化粧を施した別の少年。