【明日への約束D】 P:08


 
 
 
 
 
 そっと障子を開け、ため息をついたのは弥空だ。

 静かな近江屋の一室。いつもならもう寝付いている時間なのに、目が冴えてどうにも落ち着かない。
 喜助の書いた文が届いたのは、四半時前のこと。
 そこには簡単に、相模屋で起きた顛末と、父の様子がおかしかったことが書き記されていた。
 ――本当に、運の悪い人ですね…
 日頃の行いが悪いせいだとはいえ、覚えのない不義で、切りつけられるなんて。しかも桜太が代わりに怪我をしたと書いてあったが、大丈夫なのだろうか。

 父のもとへ桜太を送ってから、何度も何度も引き取るように言われたけど。弥空は頑として聞き入れなかった。とっとと観念して、大事にしてやればいいのだ。
 楽しんでもいない色事や、ふらふら捕らえどころのない根無し草生活を諦めて、桜太を受け入れてやればいい。
 そうしたら、きっと。
 悲しむばかりの父親が、少しは幸せになるんじゃないかと思う。きっと桜太なら、力になってくれるだろう。

 母が死んでから、味気なくなってしまった庭を眺めていた弥空は、そこに人の気配を感じて眉を寄せた。
 新月と満月の晩は、裏木戸の閂を開けておくようにしているけど。すでに相模屋からは使いが来た後だ。
 ――誰か、いる…
 弥空は羽織を肩にかけ、行灯に火を灯した。長い脚の行灯を掴み、縁側へ出て。
「誰かいるのかい」
 そっと明かりを持ち上げてみる。がさっと音がして弥空の前に現れた、小さな影。
「…?!桜太くん?」
 ぼんやりとした明かりの中で顔を上げたのは、涙に目を腫らせた少年。弥空は慌てて桜太に駆け寄った。
「どうしたの、こんな遅くに。父は?一緒じゃないのかい?」
「っふ、…く」
「…何かあったのかい…?」
 尋ねても、桜太は首を振って泣くばかり。弥空は自分の羽織を桜太にかけてやると、肩を抱いて自分の部屋へ引き入れた。
 庭には他に、人の気配もない。父が連れてきたのではないなら、こんな遅くに桜太は一人で、ここまで来たのだろうか。
 夜風にあたり、冷たくなってしまっている身体。布団の上に座らせ、そばに行灯を置いて。困ったように桜太を見つめていた弥空は、細い腕に布が巻かれているのに気づいた。
「それ、相模屋さんで?」
 問うてみるのに、桜太は黙って下を向いている。弥空は桜太の正面に座り、その腕を取った。
「痛くはないの?大丈夫?」
 頷いた桜太が、顔を上げる。赤くなっているのは、泣き腫らしたまぶたと、頬。
「…!どうしたの。誰かに叩かれでもしたのかい?」
「みそら、さん」
「痛そうだね…待ってて、いま手拭いを濡らせて…」
 立ち上がろうとした弥空の手を掴み、桜太は何度も何度も首を振った。
 少年が何を言いたいのかわからず、困り果てる弥空はふと思い出す。
 喜助からの文には、時雨の様子がおかしく、一緒にいた子供に何かをやつ当たっているように見えたと、書いてあったけど。
 まさか。
「…父に叩かれたのかい?」
 桜太は何も言わず、ぎゅうっと身を縮ませている。答えを聞かなくても、自分の言葉が正しかったの知って、弥空は眉を寄せた。
「あの…馬鹿父…」
「弥空さん…弥空さん」
「ああ、ごめんね。痛いかい?冷やした方がいいよ、桜太くん。やっぱり手拭いを…」
「ぼく、いらないって…」
「…え?」
「時雨が…ぼくのこと、いらないって…目障りだ、て…っふ…ぅああ」
 自分に取り縋って泣く桜太の、小さな身体を抱きしめてやる。嗚咽を漏らす桜太の肩は震えて、今にも壊れてしまいそうだった。

 どんなに拭ってやっても、桜太の涙が止まることはなかったけど。肩をさする弥空に促され、少年は今夜、自分に起きたたくさんのことを、つかえつかえながら話していた。
 襲いかかる男の前に、自分が勝手に飛び出して怪我をしたこと。時雨より先に死んだりはしないと約束したくせに、命を投げ出すようなことをして、時雨を怒らせたこと。
 陰間の少年に酷いことをしている時雨を止めたくて、堪らず乗り込んでしまった。そうしたら……
「迷惑だって…」
「桜太くん」
「ぼくのこと、いらないって。…ぼくどうして、気づかなかったんだろう。勝手に町へ来て…時雨は優しいから、いままで迷惑だって言わなかったけど…」
「待って、桜太くん」
 どんなに傷つけられても、やっぱり自分を責めてしまう桜太。小さな身体を抱きしめて、弥空は途方に暮れていた。

 自分とそう年は変わらないはずなのに、なんて華奢で幼い身体だろう。
 この小さい身体に、溢れかえるくらいの想いと、自分を傷つけるばかりの優しさを抱いて。懸命に手を伸ばしている桜太。
 その手がただ、父だけを求めていることに、弥空は切ない嫉妬を覚える。