【明日への約束D】 P:09


 桜太を父の元に送り出して、後悔はしなかったけど。桜太が近江屋にいたふた月の間、親しく言葉を交わす時間もあまりなかったのに、桜太がいなくなって初めて、弥空は孤独というものを知った。
 毎朝毎夕、あの可愛い顔を見られなくなった寂しさは、考える以上に堪えたのだ。
 それでも弥空は、桜太を引き取らなかった。父がどうということより、桜太の望むようにしてやりたかったから。
「…本当に迷惑だなんて思っていたら、父は君のことを引き受けたりしなかったよ」
「弥空さん…」
「酷いことを言われて、辛かったね…」
 慰めてやりたいと、ただ桜太の心を少しでも軽くしてやりたいと思って、弥空は言葉を紡ぐ。
 頭を撫でてくれる弥空の腕の中、桜太は睫を濡らせて顔を上げた。

 桜太がこの町へ来て、どれくらいになるだろう。
 ずっと時雨のそばにいられるようになって、嬉しかったけど。見知った者のいない毎日に、桜太の心は疲れ果てていた。
 毎日のように圭吾の、朔(さく)の笑顔を思い出しては、時雨に気づかれないよう一人で泣いていた。
 初めて会う人々はみんな優しかったが、それでもいつも緊張していて。
 誰かを傷つけないよう、出会った人に笑顔を見せていられるように、桜太の幼い心は限界まで頑張っていたのだ。

 時雨とよく似た、深い色の瞳が桜太を見つめてくれる。辛かったろうと労って、頭を撫でてくれる。
 胸の深いところが、安堵に緩むのに気づいたら、もう止まらなかった。
 張り詰めていたものが一気に溢れだす。
 それでもまだ、我がままを言ってはいけないと、どこかで囁く声がしているのに。限界をとおに超えていた桜太は、弥空の首筋に手を回して抱きついていた。
「ひっ、う…みそら、さんっ」
「うん」
「ぼく、御茶屋さんを出て、そしたら真っ暗でっ」
「そう…怖かったね」
「どこに行ったらいいか、わからなくてっ…!お酒飲んでる男の人に、声をかけられて…腕を引っ張られて…っ!」
「何も、されなかったかい?」
「っふ…く、ぼく走って逃げて…っ…そしたら相模屋さんが、見えたから…っ」
「ああ。よく無事にたどりついたね…」
「ここしか、弥空さんしか思い浮かばなくてっ…裏の木戸、押したら開いて…っ」
「うん」
「そしたら、そしたら弥空さんがっ…」
「うん、うん。そうだね」
「ごめんなさい…ごめんなさいっ」
「謝らなくてもいいんだよ、桜太くん」
 ぎゅうっと背中を抱き返してくれた弥空は、やがて腕を緩めると、何度も何度も背中を叩いてくれた。
 もっと小さかった頃、眠れない桜太に圭吾がしてくれたのと同じ。心配しなくていいと、何者にも傷つけさせはしないからと、そう囁くように。
「時雨に、嫌われたくないの…っ」
「桜太くん…」
「いらないって言われて、怖くて…っ!でもぼく、時雨に嫌われたくないっ」
 温かい腕に甘えて、思いのたけを口にした桜太の肩。
 そっと弥空が押しやった。わずかに身体を離し、でも支える腕は解かずに。

 弥空は困ったような顔をしていた。働き者の指が、桜太の唇に触れる。
「父はあの通り厄介な人だよ。いいの?」
「み、そら…さん?」
 掠れるような声に、桜太はしゃくりあげるのを止め、間近になった弥空の瞳を見つめた。時雨と同じ色の瞳が、ゆらりと揺れて、何度かまばたきをしている。
「君はいつかまた、傷つけられるかもしれないよ?子供のように駄々を捏ねるあの人のそばにいたら、苦労ばかりするかもしれない」
 それでもいいの?と尋ねられ、桜太は首を振る。

 もはや、桜太の心を占める思いは、思い込みでも勘違いでもない。
 亡くした妻の話を、寂しげにしていた時雨。自分の勝手さを嘆いて、苦しそうだった時雨。
 彼のそばにいて、支える手になりたい。どうしても自分の、頼りない手をとって欲しいと思った。
 まだまだこんな拙い手では、時雨が他の人のところへ行くのを止められないけど。
 それでも。

 まるで弥空を、時雨と間違えているかのように。必死に言い募る桜太は、子供の顔などしていない。
 涙に濡れた頬は、時雨が抱くかりそめの相手に、嫉妬しているようにさえ見える。潤んだ瞳を見つめ続ける弥空の中に、なにかどろりと、熱いものが溢れた。
 うっすら開いた唇がやけに赤くて、零れてくる吐息が甘い。そう思ったら、理性なんか吹っ飛んでいて。
 弥空はそっと桜太に口付けた。
 口付けた瞬間、しまったと後悔した。この子は、自分のものではないのに。
「ん…ふ、っ」
 ああ、でも。止まらない。
 桜太の甘い吐息に、何度か唇を触れ合わせた弥空は、熱っぽい瞳で桜太を見つめる。