【明日への約束E】 P:03


「昨日の顛末は桜太くんから。あなたがここでやさぐれていることは、昼前から方々に聞いて回って、ようやくたどり着きました。他に聞きたいことは?」
 冷たい声に反論の言葉もなくて、時雨はたばこ盆を引き寄せた。
 煙管に葉を詰め、火をつける。すうっと吐き出した煙がゆらゆら昇っていくのを見つめる視線は、まるで死んだ魚だ。

 昼までに急ぎの仕事を済ませ、後を他の者に任せた弥空は、時雨の足取りを辿って町を走り回った。結局この竹の屋に時雨の所在を突き止めたときには、日が落ちてしまっていたが。こんなこと、他人に任せるわけにもいかないし、何より弥空自身が、自分で一言言ってやりたかったのだ。
 朝起きて、桜太の姿を見つけた祖父は、嬉しそうに笑い、しかし涙で目を腫らせている姿に心を痛めていた。
 時雨を探しに行きたいと言う弥空を、誰にも黙って、店から出してくれたのは祖父だ。
 自分の勝手に弥空が頭を下げに行ったとき、祖父は桜太を膝に乗せて何事か考えている様子だった。
 皆、桜太に会ってから、変わろうとしている。変化に怯えて逃げ回っているのは、時雨だけだというのに。

 弥空は目の前の父親を見つめていた。
 この胡散臭い父親に、昨夜は決定的な負けを食らってしまったのだ。面白くないこと、この上ない。
 自分ならもっと桜太を大事にしてやれると、そう囁いた弥空に、桜太は切ない顔で「ごめんね」と呟いていた。
 答えは最初からわかりきっていたことで、弥空自身も諦めをつけるまで、時間がかからなかったけど。
 こうして目の前に、後悔しか出来ないでいる父親を見ていると、腹立たしくて仕方ない。
「…桜太は、どうしてる」
 酒と煙草と、それに昨日からの騒動で掠れた、時雨の声。
 弥空はすうっと目を細める。
「知りませんよ」
 その一言に、やっと時雨は弥空を見つめた。
「知るわけないでしょう?どうして私が知っていると思うんです」
「昨日の話は桜太から聞いたと、そう言ったのはお前さんじゃないか」
「ええ、そうですね。…なんですか?昨日の夜のことが聞きたいんですか?」
「…………」
「あんな時間に、陰間茶屋から飛び出したんですよ。無事でいる方が、おかしいと思いますけど」
「おいっ」
 弥空の言葉に、時雨は頬を引き攣らせている。やっと己の浅慮に気づいたか。そう思っていても、弥空は無表情のまま言葉を継いだ。
「泣きながら、近江屋に駆け込んできましたよ。酔っ払いに物陰へ引き擦り込まれた、と言って」
 わざと大げさに言ってやる。
 本当は腕を引っ張られただけだという話だが、そうなっても不思議はなかったはずなのだから。
 時雨がさあっと青ざめた。面白いくらいに、焦っている。
「それで、桜太は…!」
「どうしたんです」
「弥空!」
「なにを慌てているんですか?いまさらでしょう」
「桜太は無事だったのか?!」
「だから。あなたには、関係ないんでしょう?」
「っ……!」
「いらないんでしょう?父がそう言って、桜太くんを放り出したんじゃありませんか」
 静かな声。
 息子の声に憤りを感じて、時雨は黙り込んだ。

 弥空の怒りはもっともだ。
 あの界隈は、少年の身体に劣情を抱く者が集まっている。そこへ深夜、可愛い顔の少年を放り出した愚か者は、時雨自身。
 まだ火のついている煙管を握り締め、うな垂れる時雨を前にして。しばらく黙っていた弥空は、ようやく「無事ですよ」と呟いた。
「なんとかね。振り切って、逃げてきたんです」
「…そうか」
 ほっと息をついた時雨を許さず、弥空は畳み掛けた。
「どんなに怖かったでしょうね」
 眉をしかめて顔を上げた時雨を、弥空が冷静な瞳で見つめていた。
「たった一人、月のない夜に。酒臭い男の強い力で、自由を奪われそうになって。助けを呼ぶことも出来ないところで、そんな恐ろしい目に遭ったんですよ」
「…………」
「父は何も、わかってない」
「わかってるよ…」
 愚かな自分の、馬鹿な行い。
 しかし弥空は首を振った。
「わかってませんよ。…ねえ父、この町には誰もいないんです。桜太くんにとって、本当に頼れる人なんて、あなたしかいないんですよ?…昼だろうと、夜だろうと。通りに一人で置いてゆかれたら、立ち竦むしかないんです」
「そ、ら…」
「私ですら、彼にとってはあなたの息子という存在でしかない。この町であなたという拠り所を失ってしまうことは、桜太くんにとって世界中にたった一人になるのと同じことなんですから」
 厳しく言い放った弥空は、うな垂れる時雨を見つめ、唇を噛み締める。
 どんなに弥空が桜太を愛しく思ったとしても、桜太からは重荷でしかない。少年にとっての弥空は、時雨の付属物でしかないのだから。