「あなたは、自分で思っているよりずっと、必要な人間なんですよ…」
どうかもう、いい加減わかって欲しい。
いつまで経ってもふらふら、ふらふら。自分の命にすら執着しない時雨の姿は、関わる者を不安にさせ、苦しめる。
桜太だけじゃない。
それは、弥空とて同じことなのだ。
時雨がいなければ、弥空は頑張ったりしない。本当に時雨をどうでもいいなどと思っていたら、弥空は「いい子」になどならなかった。
幼い頃に母と死に別れ、父を取り上げられて。祖父母がどんなに可愛がってくれても、弥空はいつも寂しかった。
相模屋の喜助に手引きしてもらって、久しぶりに時雨に会った時のあの嬉しさを、弥空はずっと忘れないだろう。
近江屋と時雨の、軋む音が聞こえるような、いたたまれない関係の中で、弥空だってずっと苦しんできた。
杯を手にした時雨が、それを呷ろうと手を上げ、しかしそのまま、ゆっくりと置いた。長い髪に指を通し、何かをやつ当たるように強く握り締めている。
部屋の隅に母の編んだ結い紐を見つけた弥空は、それを手にしたまま目を閉じた。
変化を恐れるのは、仕方ないことだと思う。この人は、あまりにも傷つき過ぎた。
それでも桜太が、時雨のそばで支えているなら。……もう少しこの人も、頑張ってくれるんじゃないかと、思える。
「おじい様に、聞かれたんです…」
唐突に、違う話を始めた弥空。
頭を上げた時雨は、まだぼうっとした目をしている。
「…自分は、本当にあなたを嫌っているんだろうかと。嫌うほど、あなたを知っているんだろうかと、そう仰って…」
近江屋の主人は、けして理不尽な人ではない。
自ら望んで婿にもらった時雨を、理由もなく嫌っているはずがないのに。彼はいままで、その問題と向き合わなかった。
祖父の言葉を聞いたとき、弥空は心の底から驚いた。やけにしみじみとした声で、祖父が「儂(わし)は今まで、時雨の何を見ておったのか」と言い出したとき。
諦めきっていた希望が、唐突に弥空の前に現れたのだ。
「いきなりどうしたんですかって、聞いたら。桜太くんに言われたって仰るんです」
「…桜太に?」
「ええ。…あなたが嫌いなのか、それとも娘の夫が嫌いなのか…父に冷たくあたって、幸せになったのかとね」
目を見開く時雨の前で、弥空はやんわりと笑った。
「驚きました…。私も聞いてみたかったんですけど、今まで聞けないでいたから」
「…………」
「おじい様は答えられなくて、悪いことを聞いたかと、桜太くんに謝られてしまったそうですけどね」
縁組を告げられたときからずっと、時雨を蔑むように見ていた義父。しかし彼が尊敬に値する人だということは、時雨もわかっていた。
二人で話すことは、ほとんどなくて。
嫌う義父と、嫌われる婿に、二人は慣れ過ぎてしまっていた。
ひとつずつ、ひとつずつ。
時雨の苦しみを、桜太がほどいていく。
頑なに目を閉じ、辛さから逃げ回る時雨を受け止めて。まだ年端も行かぬ桜太が、懸命に光を探している。
早く気づけと、祖父の話をした弥空の前で、時雨は何を言うことも出来ず、ただうな垂れるばかり。
しばらくそのまま、父親の答えを待っていた息子は、とうとう諦めて肩を竦めた。
本当に、どこまでも煮え切らない男だ。このままじゃ、あまりに桜太が報われない。
少し思案するように、くるくると時雨の結い紐を指に巻きつけていた弥空は、ふと顔を上げた。
緩く絡んだ組紐を外して、笑う。
「可愛いですよね、桜太くん」
また唐突に、しかも軽い調子で言うものだから。時雨は顔を上げて、訝しげに弥空を見つめた。
父親の視線の前で、弥空は大人びた表情を見せている。
「まっすぐで、懸命で、一途で。傷ついても傷ついても明るく笑って、いつも誰かの為に出来ることを探してる」
そんなことは、弥空に言われるまでもなく、時雨にもわかっていた。何を言い出すのかと、改めて煙管を咥えた時雨は「貰ってもいいですか?」と問われ、ぎくりと動きを止める。
「…なんだって?」
「父がいらないんなら、私が貰ってもいいですか?桜太くん」
まるでさっきまで、桜太を庇っていたことなど忘れてしまったかのように。肩を竦める弥空の顔には、嘲るような笑みが浮かんでいた。
「何言ってんだい、お前さんは…犬や猫の子じゃあるまいし」
「構わないでしょう?父がいらないと言うなら、私に下さいよ」
「空」
「あんな子、他にいませんからね。どうせだったら貰っておこうかと思ったんですが…嫌ですか?」