その時に、自分は。父として、いや桜太を挟んで立つ男として、弥空を許してやれるのか。
泣きながら弥空の腕に収まる桜太が、助けを求め時雨の名を叫んでも、自分は黙って見ていられるのかと。
……そう考えたとき、時雨は気づいた。
やっと遅すぎる答えに行き着いて、時雨は自分のあまりの愚かさに、身を屈めて蹲る。
何が大人だ。何が父親だ。
どんなに言い訳をして、逃げ回っていたって。時雨はとうに、桜太が自分のものだと思い込んでいる。
あんなにも健気に手を伸ばしてもらっておきながら、その手を払いのけたくせに。傷つけ泣かせて、危ない夜の町に、桜太を放り出した。
何もわかろうとせずに、一人で憤りやつ当たったのだ。
桜太が勝手に、その身を投げ出したと言って。自分との誓いを破ったなんて、幼い少年を責め立てて。
あの時にはもう、時雨は桜太を自分のものだと信じていた。命までも捧げろと、傲慢に考えて。だからこそ、怒り狂ったのだろう。
深夕と共有した、優しいばかりの時間じゃない。時雨は桜太と、激しく求め合い互いを独占する、魂までも溺れるような関係を望んでいる。
床に頭を擦り付けるようにして、首を振る時雨の耳の奥。弥空が、小春が「観念しろ」と時雨を責めていた。
桜太を手離す気なんかないんだろうと、小春が呟いた台詞。なんて鋭い女だろう。いや、もしかすると誰の目からも明らかだったのかもしれない。
少なくとも、あの満月の夜。弥空は全てを承知して、桜太を送り出しだのだ。
引き取りに来いと訴え、桜太から目を逸らして逃げ惑う時雨を、息子はけして許さなかった。
桜太の愛しさに溺れてしまえと命じるかのように、弥空は時雨の弱音をことごとく拒絶したのだ。
……とおに、見通されていたのだろう。時雨の我がままが、桜太を捕らえようとしていることなど。
どんっ!と床を叩き、時雨は何度も何度も首を振った。そんな我がままが、許されるはずなどない。
幼い桜太は、圭吾からの預かり物。
何も知らない無垢な少年に、自分のような汚れた大人が触れてもいいのか。……いいはずがない。
華奢な桜太を自分が抱きしめて、何が生まれるというのか。何も生み出さないではないか。自分では桜太を傷つけるばかりで、彼の持つ明るい優しいものを奪うばかりで、何ひとつ幸せなど与えてやれない!
己を苛む声に従って、時雨は自分が桜太に抱き始めている情欲を、封じ込めようとする。絶対に手を出してはならない存在なのだと、己に言い聞かせた。
どんなに愛しくて。どんなに自分が、桜太の与えてくれるものを求めていても。それが桜太のためにならないなら、この身を切り刻み、痛みに耐えるしかない。
慣れているはずだ。
時雨は今まで、失うことに慣れ、目を逸らして流れるままに身を任せてきたのだから。
もう一度、強く握った拳を床に叩き付けて。時雨はその勢いのまま、硬くなってしまっている身体を、部屋の真ん中に投げ出し、目を閉じた。
昨夜からずっと続いている寝不足と、苦しいほどの苛立ちに、心よりもう身体が限界で。すうっと誘われる眠気の中に、これでいいんだと囁く、自分の声が聞こえた。
眠ってしまえ。
忘れてしまえ。
朝になればきっと、痛みは時雨の身体に染み付いているだろう。傷の在り処を忘れてしまうくらい痛みに慣れたら、この身の内から灼かれるような焦燥も消える。
明るい日の光の下で桜太に会うのが辛いなら、しばらく会わなければいい。少年の優しい面差しに向き合う自信がないなら、いつものように曖昧に笑っていればいい。
きっと忘れる。
時雨だけじゃない、桜太もきっと、そのうち慣れる。そうして、時雨を忘れるだろう。それでいい。
だから時雨はまた、己の心の端を少しだけ殺す。深夕のときと同じように。
激しく飢え、泣き叫ぶ心の端を自分で切り落とすのだ。
泥のような眠りに引きずり込まれていく頭の中。誰かのすすり泣く声が、ずっと聞こえているような気がした。
……夢の中で泣いていたのは、桜太ではなかった。
てっきり桜太だと思っていた時雨は、首を傾げるけど。夢は時雨を受け入れるつもりがないようで、近寄ろうとするのに足が動かない。
泣いているのは、少女の人影。
見たこともないその少女が深夕だということに、時雨はすぐ気づいた。
顔を伏せたなぜか小さな深夕はずっと、しゃくり上げ、蹲って泣いている。
頭を撫でてやりたいのに、肩をさすってやりたいのに。動かない足がもどかしくて、時雨は奥歯をかみ締めた。
そこへ、現れた少年。
時雨は目を見開く。
――桜太…!