桜太は時雨の方を見て、そうして深夕のそばに膝を折った。桜太が何かを話しかけると、少女は驚いて顔を上げた。
……桜太が何かを、指差している。
指差す先には、時雨がいた。
こちらを向いて、深夕が嬉しそうに笑う。ほっとした様子の桜太も、笑みを浮かべる。……でも大きな瞳は、切ない色で時雨を見ていた。
深夕に手を引かれた桜太は、悲しげに首を振った。まるで自分はここから動けないのだとでも言うように。
薄く開いた桜太の唇が、言葉を紡ぐ。
――どうして信じてくれないの…?
時雨はびくりと身体を震わせ、慌てたように身を起こした。
一体どのくらい眠っていたのか。日付が変わったのかどうかすら、時雨にはわからない。
驚くほど明確に覚えている夢の中で、桜太の呟いた台詞。眠気を遠ざけようと頭を振った時雨の中で、どんどん鮮明になっていく桜太の声。
相模屋まで自分を求めて来た少年に、お前の勘違いだと諭したとき。
彼は切ない声で囁いていた。
――信じて…
桜太の声が、蘇る。時雨は動揺した。
ああ、そうかもしれない。
自分はあの時から、すでに桜太を子供だなんて、思っていなかった。
薄く開いた唇に、零れてくる濡れた声に、熱を巡らせ唇を重ねた。華奢な身体を折れるほど抱いて、さらりと手触りのいい髪に指をくぐらせた。
桜太は一度も、時雨を拒絶したりしていない。
自分を育み、守っていてくれた圭吾の手を振り切って、時雨の元へ飛び込んできたのだ。
「旦那」
外からの声に、時雨が降り返る。
「…なんだい」
すっと開いた襖の向こう、竹の屋の番頭が台帳片手に顔を覗かせていた。
「へえ、すまんです。今晩の御代を頂戴したいと…へえ」
「あ…ああ、そうだね」
もうそんな刻限なのかと、懐から銭貨を取り出す時雨の後ろに、雨音が響いていた。
「…雨なのかい?」
「へ?…へえ。今日は昼過ぎから、ずっと降っておりやすが…旦那?」
ゆらりと立ち上がった時雨は、小さな明り取りの窓から、暗い空を見つめる。しとしとと空気を湿らせている雨音。確かに今さっき始まったという感じはしない。
しかし雨音は、唐突に表情を変えた。
まるで時雨の心を表すかのように。しだいに激しく、荒々しくなっていくのだ。
「嵐に…なりそうだね…」
「さようで。船頭らが船を引き上げておりやしたよ。今晩は雷が鳴って、大雨になるとか」
「っ!」
いきなり振り返った時雨の強張った表情に、番頭は訳がわからず、びくりと肩を震わせる。
「だ、旦那。なにか?」
遠く、ごろごろと空が鳴き始めていた。その音は、獰猛な唸り声にさえ聞こえる。
「…番頭」
「へ?」
「さっきの宿代は、お前さんにくれてやるよ!」
時雨は何かを振り切るように、走り出していた。他の泊り客に肩がぶつかるのも構わず、慌しい様子で階段を下りていく時雨の後姿を、番頭が呆然と見つめている。
時雨の脳裏に浮かぶ桜太の姿だけが、時雨を動かしていた。
真っ青になって雷に怯え、時雨に縋り付いていた桜太だけが。